奝然は私費・商船で渡宋 960
奝然はお弟子さん?ら五・六名と海を越え宋に渡ってます。
既に朝廷は中華王朝への「遣使」派遣を中止(894)していますので
自費にて商売で日本に渡来する船に乗せて貰って渡宋の段取り。
この時期、渡海可能な日本民間商船はなかったと思われます。
従って、宋商船と思われます。
彼はこの仏学を修得する渡宋旅について出発から帰国まで
日記(奝然法橋在唐記)に残してくれています。
但し、遺憾ながら全ては存在せず「逸文」のみです。
有難い事にこの逸文がWEBにて確認できます。
「奝然法橋在唐記の逸文」橋本進吉著(東大 INBUDS)
北宋朝の都は「開封(現在の河南省開封市)」、
彼がお邪魔した時の帝は「太宗」2代目のお方。(984年奝然47歳)
「献銅器十余事」から「太宗」に直接お目見えしてないとしても
北宋朝の官吏の方々に「お土産」をお渡ししている感があります。
更に日本の「職員令」と「王年代紀」を各一巻贈呈と。
*職員令→官僚組織の構成・官職名・役割等を定めたもの
「王年代紀」はこの後に展開されます。
これってお渡しして宜しいものなのか、やや不安を覚えます・・・・・。
又、奝然は「緑」の法衣を纏っていたとも。
上級僧が着用する「緋・紫」でないのでその次クラスのお方では?
先週疑問の「自云姓藤原氏 父為真連 真連 其国五品品官也」の件、
藤原真連もさることながら、
平安朝の「位階」にはそもそも「五品品官」は存在しません。
品位等級は親王・内親王のみに与えられ一品(いっぽん)~四品迄です。
斟酌して、奝然を思えば、
北宋朝に於ける「五品官位」に当たると云いたかったのかも?
奝然寄贈の「職員令」確認で、即お分かり頂けると思われますが?
続く。

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