新唐書日本最後は誤認多しXVI 956
「建中元年(780年)、使者の真人興能が貢ぎ物を献上した。」
780年はあの白亀献上改元の「宝亀年間」白壁王→光仁帝の御代。
「続日本紀」にはこの遣唐使派遣は記されてません。
記述されているのは唐使の「孫興進」を送唐客使「布勢清直」が
唐に送り届けていると。(779~781帰国)
(来日唐使「孫興進」は第一回遣唐送使の高表仁から二人目のお方)
この時点の唐は宦官が差配する12代徳宗時代。
「新唐書」の「本紀 巻七 徳宗」にも記述がありません。
遣唐使の「真人興能」は一体、どちら様なのかしらん?
能書家との事から、奈良朝の吉備真備かなと思いきや彼は既に他界。
三筆の空海・橘逸勢は804年遣唐使の留学僧・生ですから違います。
この件は全くどうしたことか思い悩みます。
取り急ぎ、この件は保留、次に進みます。
桓武帝が送った遣使、空海・橘逸勢にも、とてつもない間違いが。
事実誤認ですよ。彼ら二人は20年も大唐で勉学に励んでいません。
早々と学問・仏教の教えを会得、切り上げ、
この次の遣唐使805年日本発の高階(遠成)真人らと
さっさと、806年には帰国を果たしています。
一方、帝の系譜は表記違い、誤字はあれど正確です。
そして、最後に付け足し気味に「東海の島々」を紹介してます。
邪古(やこ)→屋久島 波邪(はや)→隼人 多尼(たに)→種子島
と比定されていると。
又、これらの諸島は北は「新羅」西北は「百済」西南は「越州」に
隣接しているとの事です。但し、西南は承知しかねます。
「越州」は現在の浙江省紹興市一帯になります。
西南方面は「台湾島」になってしまいます。
これって、
「三国志」で「呉」の牽制位置に「倭」を措定した事を引きずってます。
それから、絹織物は疑問ですが、珍しい物産品々はきっとあった筈。
これにて、新唐書の読み解きはお仕舞い。 続く。

| 固定リンク













観て


コメント