斉明女帝 熟田津出航X I 951
壮健と思われた斉明女帝、気疲れからか病に倒れ?崩御されます。
661/04/00 百済の福信、使を遣わし王子の糺解の帰国を求める
661/05/09 朝倉橘広庭宮へ遷居 (宮は現在の福岡県朝倉市須川)
朝倉宮造営の間、又、不可思議な現象が記されてます。
宮造営の際、朝倉の社(やしろ神社)の樹木を切り払った為、
朝倉社の神が忿(いか)って殿(おほとの宮殿)を壊した。
又、宮中に鬼火が出現。この鬼火に依り大舎人・近侍の多くが病死。
661/05/23 躭(耽)羅始めて王子阿波伎(あはき)らを遣わし貢献
*耽羅(トラ・タンラ)→現在の済州島で古代の国名
661/06/00 伊勢王(おほきみ)薨去(この伊勢王はどちら様か不明です。)
661/07/24 斉明女帝が朝倉宮にて崩御
661/08/01 皇太子は女帝の喪(みも)に奉従(ゐいまつ)りて磐瀬宮に至る
磐瀬宮に還って夕方、又々、怪奇現象の記載
朝倉山の上に鬼が出て、大笠を被って喪の儀(よそほひ)を見ていた
661/10/07 女帝の喪を帰る船に移し海路にて難波津に向け出航
661/10/23 女帝の喪が難波津に着
661/11/07 女帝の喪を飛鳥の川原で殯(もがり)す
661/11/09迄、発哀(みねたてまつ)る(泣き声を上げる弔礼)
これにて、「石造りの王都」等々本邦初である数多の出来事を
成し遂げた水の祭祀・斉明女帝は生涯を終え・逝去・永眠されました。
但し、日本書紀の編集者は彼女への嫉妬なのか、悪意ありなのか、
異様・不可思議・怪奇現象を思わせぶりに?記述しているのです。
確かに、彼女は蘇我宗家抹殺に関わる首謀者です。
しかし、直系末裔は書紀の執筆に加わってません。はたまた、
書紀の総合プロデューサーは中臣鎌足の息子・藤原不比等です。
従って、655年の空翔ぶ「龍」は水の祭祀・斉明女帝の化身、661年の
朝倉宮の鬼火は前朝倉神社神官の嫌がらせ、近侍ら病死は明日香の
水になれた方々の中で朝倉の水が合わなかった或いは病原菌の悪戯、
朝倉山の大笠を被った鬼は入道雲なのでは?
穿って、鬼火を除き「龍」と鬼入道雲は女帝の神秘性直喩なのかも?
この後、倭国は
663年白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗を喫します。
結果的には女帝の百済再興の意志を果たせなかったのです。そして、
667年女帝の新企画「八角墳」方針を受け継ぎ、中大兄皇子は
明日香牽牛子塚(古墳)を造営、間人皇女と共に葬るのです。 続く。

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