旧唐書 白亀元年調布VI 934
717年の遣唐使の記事で遣使は儒学講義を唐朝政府に要請してます。
誰が受講したかは不明。続日本紀を紐解いても記載されているのは
押使→多治比縣守(668~737)
大使→阿倍安麻呂 後、病気発生で大伴山守に交替
副使→藤原馬養(694~737唐にて、宇合〈うまかい〉に)不比等3男
甲作客小友(よろひつくりのまろうどをとも)が固有名詞として登場するのみ。
(国立国会図書館デジタルコレクション 続日本紀 P56 5行目)をご確認。
但し、少なくても受講者は中国語が理解できる方の筈です。
その儒学経典伝授のお礼として「幅広の布」を贈呈。
それに「白亀元年調布」を記されていたとの事です。
これに、唐のお役人さんは「偽(いつわ)」りとして「疑」いの念を抱いた
と記述されてます。
なぜ、調(税)として納められた「幅広の布」の表書きを取り外さず
そのままはるばる遠い唐までお土産をして持参したのか
甚だ疑問が残りますが、それは目を瞑(つぶ)るとします。
更なる疑問は「白亀元年」と云う元号は存在しません。まさか、
「霊亀(レイキ)元年」と記載するところを間違ったとも考えられません。
唐官僚らの疑念は朝貢国である「日本」が独自元号設定している?
これは彼らの認識ではあり得ないことです。
朝貢国は唐王朝の元号を使用する事がお約束だったからです。
日本の遣使も当然そんな事はお分かりだったのでは?
考えるに、わざとお見せして「顔色伺い」をしたのではないかと。
但し、訝(いぶか)られたのみで咎(とが)められていないので
しめしめ、してやったりと、ほくそ笑んだかも知れませんことよ。
又、この遣唐使で留学生として吉備真備(695~775)と
阿倍仲麻呂(698~770)らが赴いています。
真備はこちらで17年程(734年帰国)勉学に励みます。
この間、経書・史書、及び、兵学、天文学等々の知識を吸収とか。
従って、
唐に止(とど)まり、帰国できなかった阿倍仲麻呂、及び、吉備真備は
儒学講義を確実に受講したと思われます。 続く。

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