阿倍仲麻呂 唐にて官吏にVII 935
「偏使朝臣仲満」とは阿倍仲麻呂(698~770)です。
以前、楊貴妃についてお話した際、彼女の時系列に挟みました。
「世界三大美女 豊満な楊貴妃I 」
彼は遣使で入唐するも、日本に帰国を果たせなかったお方。
とは云うものの、
彼の才気が玄宗帝の目に止まったのか?重用され、
唐朝に多大に貢献した日本が誇れる、
当時、国際的に活躍された名にし負うお方なんですよっ。
下記は玄宗帝と仲麻呂の時系列です。
712年玄宗帝28歳即位(仲麻呂15歳)
717年20歳仲麻呂(玄宗33歳)らは遣使として入唐長安へ
733年36歳仲麻呂(玄宗49歳)来唐日本遣使の諸雑事処理
734年37歳仲麻呂(玄宗50歳)玄宗12男儀王の友(付き人)に
752年55歳仲麻呂(玄宗68歳)日本遣唐使接待命 仲麻呂帰国願い
753年56歳仲麻呂(玄宗69歳)帰国企図も暴風で船漂流、安南着
755年58歳仲麻呂(玄宗71歳)漸く長安へ戻る
762年64歳仲麻呂(玄宗77歳)玄宗崩御
766年68歳仲麻呂 安南(現在のベトナム北中部)節度使(辺境警備長)
770年73歳仲麻呂 唐にて死去
弱冠二十歳、危険な船旅を無事クリアー留学生として唐に渡ります。
旧唐書に仲麻呂は「朝衡」と改名、又「左補闕」等々の
官職を歴任した記述されてますので役人への登竜門「科挙」に合格
していたと思われます。更に、わざわざ「好書籍」と記されています。
よっぽど書物がお好きだった考えます。
717年遣唐使で仲麻呂と同じく留学生として吉備真備(695~775)、
学問僧として玄昉(?~746)も同行しています。
吉備真備と玄昉は733年の遣唐使船で翌734年に帰国します。
但し、朝衡(仲麻呂)は理由は不明ですが唐に残り「儀王友」等、
更なる唐朝の役人を続けました。
次なる情報は「天宝十二年又遣使貢」。
753年正月遣使が玄宗に拝謁、この際、朝衡(仲麻呂)が彼らを接待、
前年来唐時、朝衡(仲麻呂)は玄宗に帰国願いを提出、
受理されています。
玄宗は35年に渡る朝衡(仲麻呂)の貢献に感謝、
帰国を許可したのです。
この時の遣唐大使は藤原清河(きよかわ藤原北家房前4男)で
副使は何と734年に帰国した吉備真備だったのです。 続く。

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