« 旧唐書 東夷 倭・日本国III 931 | トップページ | 玄宗帝御代2回遣唐使派遣V 933 »

2025年3月 1日 (土)

武則天 粟田真人を厚遇IV 932

「長安三年~放還本国」の「Gemini」訳
「長安三年、その国の大臣朝臣眞人が来て珍品を貢いだ。
 朝臣眞人は、中国の戸部尚書のように進徳の冠を頭につけ、
 花のように四方に分かれ、紫の袍を着て、帛で腰帯を締めていた。
 眞人は経典や史書を好んで読み、文章を解し、
 容貌も優雅であった。
 則天武后は彼を麟徳殿で宴に招き、司膳卿の官位を授けて
 本国に帰らせた。」
旧唐書 本紀第六 則天皇后には
「(長安)二年 冬十月 日本国遣使貢方物」と記載されてます。
ここから、702年6月に出発した遣唐使一行らは10月に洛陽着、
あらかじめ、贈答品をこの時点で渡していたと考えられます。
又、「日本国」との表記から国号改変の件も伝えていたと思われます。
701年制定された「律令」(大宝律令)の写しも持参、お届けしたやも?
その表紙に「日本国」と記していたのでは・・・・・?
事実は全く知るよしもなくて不明です。
但し、長安三年(703年)春正月「大臣朝臣眞人(粟田真人)」は
女帝・武則天に拝謁、ご挨拶していたのは事実になります。
尚、以前、粟田真人は既に遣使随員、留学僧・道観として
653年に入唐、勉学に励んでいます。(鎌足の長男定恵と同船。)
真人は武則天にいたく気に入られたのか?個人で宴会に誘われ、
更に、「司膳卿」の官位までも賜っています。
中国王朝唯一の女帝、武則天に厚遇された粟田真人。
彼の何処に魅力があったのかとても興味が・・・・・。
「続日本紀」には真人が藤原京造営、大宝律令制定等を説明したと。
真人は704年に「白村江の戦い663年」時の虜囚を返還して貰い、
五島列島福江島に漂着、日本に連れ帰ったと。
(さぞかし俘虜はかなり年寄りになっていたと思われます。)
ところで、「日本」と云う国号が記載されている
他国書物の初見がこの「旧唐書」になります。
この事が国号変更時期の一つの証左とされてます。 続く。

Sakura

|

« 旧唐書 東夷 倭・日本国III 931 | トップページ | 玄宗帝御代2回遣唐使派遣V 933 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 旧唐書 東夷 倭・日本国III 931 | トップページ | 玄宗帝御代2回遣唐使派遣V 933 »