武則天 粟田真人を厚遇IV 932
「長安三年~放還本国」の「Gemini」訳
「長安三年、その国の大臣朝臣眞人が来て珍品を貢いだ。
朝臣眞人は、中国の戸部尚書のように進徳の冠を頭につけ、
花のように四方に分かれ、紫の袍を着て、帛で腰帯を締めていた。
眞人は経典や史書を好んで読み、文章を解し、
容貌も優雅であった。
則天武后は彼を麟徳殿で宴に招き、司膳卿の官位を授けて
本国に帰らせた。」
旧唐書 本紀第六 則天皇后には
「(長安)二年 冬十月 日本国遣使貢方物」と記載されてます。
ここから、702年6月に出発した遣唐使一行らは10月に洛陽着、
あらかじめ、贈答品をこの時点で渡していたと考えられます。
又、「日本国」との表記から国号改変の件も伝えていたと思われます。
701年制定された「律令」(大宝律令)の写しも持参、お届けしたやも?
その表紙に「日本国」と記していたのでは・・・・・?
事実は全く知るよしもなくて不明です。
但し、長安三年(703年)春正月「大臣朝臣眞人(粟田真人)」は
女帝・武則天に拝謁、ご挨拶していたのは事実になります。
尚、以前、粟田真人は既に遣使随員、留学僧・道観として
653年に入唐、勉学に励んでいます。(鎌足の長男定恵と同船。)
真人は武則天にいたく気に入られたのか?個人で宴会に誘われ、
更に、「司膳卿」の官位までも賜っています。
中国王朝唯一の女帝、武則天に厚遇された粟田真人。
彼の何処に魅力があったのかとても興味が・・・・・。
「続日本紀」には真人が藤原京造営、大宝律令制定等を説明したと。
真人は704年に「白村江の戦い663年」時の虜囚を返還して貰い、
五島列島福江島に漂着、日本に連れ帰ったと。
(さぞかし俘虜はかなり年寄りになっていたと思われます。)
ところで、「日本」と云う国号が記載されている
他国書物の初見がこの「旧唐書」になります。
この事が国号変更時期の一つの証左とされてます。 続く。

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