旧唐書 東夷 倭・日本国III 931
「日本国者 倭国之別種也~山外即毛人之国」の「Gemini」訳
「日本国は倭国の別の種類である。
その国が日の辺りにあることから日本と名付けられた。
あるいは、倭国が自分の名が上品でないと嫌って
日本と改名したともいう。また、日本は昔は小さな国だったが、
倭国の地を併合したともいう。
その国の人々が朝廷に来た者は多くが自分を大きく見せようとし、
正直に答えないので、中国人は疑った。
また、その国の国境は東西南北に数千里あり、西界と南界は
すべて海に達し、東界と北界には大きな山が境となっている。
山の外は毛人の国である。」
この「日本国」の記載から倭国から日本国へ国号変更されました。
東夷 倭・日本国条の書き出しは「倭国者古倭奴国也」。
従って歴代中華王朝の認識は
「倭奴国」⇒「倭国」→ ≒「日本国」の構造です。
九州~→難波~→大和と変遷し「別種」との表記から政権交替の
事実を臭わせた表現になっています。
「日本国」とした理由として
1 日の本の国(ひのもとのくに)だから
→我が国は唐王朝の東に位置し、日が昇るところにあるからなのよ。
2 倭国は自らその名の雅ならざるを悪みて 改めて日本となす
→上は訓読。倭・倭人はあなた達のわたくし達に対する蔑称
でしょう。だから日の本の国にしたのよ。
3 日本は旧小国、倭国の地を併せた
→上は訓読。これって本当の話なのよね。
と遣使は唐朝廷の役人さん達に訴えます。
3の説明の背景は「大和政権」のリーダーが「近江・越前王朝」へ交替
した事実を踏まえているのかしらん?
但し、訴えが横柄でチャントに返答している感がなかったと思われ
唐の役人さん達は疑い、訝ったとか。
この国号変更ですが、702年日本発703年唐王朝(実際は周王朝)着の
粟田真人(執節使)・坂合部大分(大使)らが渡海、
武則天に謁見した際、説明とされています。
従って、上記の「日本改名」説明はこの遣唐使での出来事に。 続く。

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