旧唐書 東夷 倭・日本国II 930
中国史書で倭奴国表記の初出は「後漢書 東夷倭伝」になります。
「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也」
57年に倭奴国が漢にご挨拶に伺った件(朝貢)。
地理・風俗ファッション等の状況は「三国志 魏志倭人伝」から。
「王姓阿毎氏(王の姓は阿毎氏)」「設官有十二等」は隋書倭国伝、
「置一大率」は魏志倭人伝(26行目)、等々を参照・引用してます。
(管理官の大倭と一大率をご確認下さい。)
次は貞観五年(631年)以降~日本国者の前までの「Gemini」訳です。
「貞観五年に使者が来て珍品を献上した。太宗は彼らが遠くから来た
ことを憐れみ、毎年貢物を差し出すよう命じることを官庁に禁じた。
さらに、新州刺史の高表仁に節を持たせて日本を撫慰(なだめる)に
向かわせた。しかし、高表仁は遠方を安撫する才能がなく、王子と
礼節を争い、朝廷の命令をうまく伝えられずに帰国した。二十二年
になり、新羅に便乗して表文を奉り、朝廷の動静を知らせた。」
ここからの記述は唐王朝(618~907)時代の新事象になります。
貞観五年(631年)の倭は厩戸皇子(大王)・蘇我馬子・推古帝は
既に他界、舒明帝(593~641在629~641)の御代。
日本書紀では630年第一回遣唐使派遣(犬上御田鍬大使)、
荒海を乗り越え無事着、翌年、太宗(597~649在626~649)に謁見。
帰国の際、送使として高表仁が来倭、
「与王子争礼」の王子は古人大兄皇子(?~645)と思われます。
高表仁は倭の内情視察・朝命表明の役目、但し、古人大兄皇子と
反りが合わなかったのか朝命表明出来ずに帰国。
貞観二十二年(648年)は乙巳の変(645年)の後で、
孝徳帝(596~654在645~654)の御代。
倭は新羅に依頼して唐朝廷に上奏文を届け、ご機嫌伺いしたと。
「東夷 倭・日本国」条には記述されてませんが
「巻四 本紀 高宗上」条、永徽5年(654年)に遣唐使記載あり。
「十二月癸丑 倭国献琥珀(コハク) 碼瑙(メノウ)」
高宗(628~683在649~683)
遣唐使は高向玄理押使・河辺臣麻呂大使。
尚、この前年653年の遣唐使吉士長丹大使の船で
中臣鎌足の長男・定恵(643~665)が留学僧として赴いています。
続く。

| 固定リンク
コメント