玄宗と楊貴妃と高力士 925
ここで少し中国王朝の「宦官」について。
(成り立ち・生い立ちについてはここでは触れません。)
そもそも、玄宗に楊玉環を紹介・見合わせたのは玄宗側近の高力士。
「高力士 潘州人 本姓馮 少閹 与同類金剛二人
聖歴元年(698年)嶺南討撃使李千里進入宮
則天嘉其黠惠 総角修整 令給事左右 略」
(旧唐書 巻一百八十四 宦官 高力士)
*高力士(690~762/8/18)→お相撲さんではありません。
*潘州→現在の広東省茂名市地域 *閹→宦官
*李千里(646~707)→李恪〈李世民の子息〉の息子)
*嶺南討撃使→嶺南〈南嶺山脈の南〉地域の軍事隊長
*給事→身の回りお世話係
高力士は幼い頃去勢され、同じ境遇の「金剛」と共に698年武則天の
「給事」として仕えます。お一人は「金剛」もう一人は「力士」。
左右合わせて「金剛力士」。ちょいと洒落がきついですが「あうん」の
呼吸で武則天をサポートしたと思われます。なよ系ではなくワイルド系の
イケメン美少年だったのか武則天はとてもお気に入りだったと。
その後、高力士は玄宗に取り立てられ大出世、官吏までも差配できる
側近中の側近になるのです。
子孫の残せない「宦官」ですがその分とりわけ良いお仕事をします。
一番有名なのは前漢時代、史記を書き上げた「司馬遷」。
お次は後漢時代、紙をこの世に送り出した「蔡倫」。
唐では「高力士」、明では大航海時代の魁け「鄭和」。
「宦官」の皆さんって、凄いでしょう?
高力士に戻ります。彼は玄宗の政の一翼を担います。宰相人事も
彼が取り仕切りました。
安禄山も宰相を希望した際、高力士に賄を渡し取り入ってます。
その安禄山が蜂起した際、彼も玄宗・楊貴妃と共に蜀へ逃避します。
その途中、馬嵬(バカイ 現陝西省咸陽市)で最終的に玄宗命により
楊貴妃が亡くなるのですが、手にかけたのが高力士と云われてます。
762年玄宗(685~762/4/5)は崩御します。その4ヶ月後に彼も死去。
玄宗の陵墓の「泰陵」(陝西省蒲城県北東金粟山)に高力士も陪葬。
最後の最後まで玄宗の側近・近臣だったのです。
ところで、今年もお世話になりました。
2024年度の出稿は本日でお仕舞いです。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さい。

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