安禄山 楊貴妃 玄宗 924
「晩年益肥壮 腹垂過膝 重三百三十斤 毎行以肩膊左右抬挽其身
方能移歩 至玄宗前 作胡旋舞 疾如風焉」
(旧唐書 巻二百上 安禄山)
*胡旋舞・・・ソグド人の民族舞踊
史書はとても残酷です。安禄山(703~757)は晩年、運動不足から?
中年太りでお腹のお肉が「膝」迄垂れ下がっていたと
書かれているのですよ。体重は330斤=224.4㎏とも。
(1斤唐時代約680g換算で)確かにとても大きなお相撲さん並みです。
但し、お腹のお肉状態は「白髪三千丈」世界表現。
更に追い打ちをかけるように歩行に支障を来していたとか。
ところが、玄宗の前では「胡旋舞」を勢いよく風のように舞ったと。
これが事実なら歩行困難は戯れ言になってしまいません?
楊貴妃も若い頃踊り子さんだったので歌・踊りがとてもお上手。
彼の華麗なステップワーク、旋回に魅了されたのかも。
彼女は安禄山の豪華な贈り物攻勢にしてやられただけでは
なかったのやも。
巨万な富・強大な武力、及び、権力の飽きなく追求、
又、玄宗がらみやも知れませんが、女性への気配り・心遣いの持ち主。
これで「イケメン」なら女性は誰もほっときません。
安禄山は楊貴妃の寝室で夜明かししたとも云われてます。
そして、紆余曲折を経て、
彼は755年冬、范陽(現在の北京)で唐王朝に
叛旗を翻し蜂起、副都洛陽へ入城、
756年正月、彼の地で皇帝として即位、国号を「燕」とします。
東軍に奪還されていた長安に近い
潼関(ドウカン)(昔の函谷関の西側一部 現在の陝西省潼関県)を再び
奪取すると玄宗等は唐王朝の都・長安から脱出(6月)、蜀へ逃避行。
この途中、楊貴妃は馬嵬(バカイ現陝西省咸陽市)で殺害されるのです。
彼女の他界を知った安禄山はいたく悲しみに暮れたと。
その後、彼は体調を崩し失明、あろうことか、
757年正月(1/5)に身内に殺害されてしまうのです。享年55歳。
「燕」は安禄山→安慶緒(729~759在757~759)→
史思明(703~761在759~761)→史朝義(?~763在761~763)。
史朝義の自害により「燕」は消滅。後に「安史の乱」と命名されます。
結果的にこの乱に敗北した安禄山らは史書に逆賊扱いされるのです。
一方、玄宗は756年7月息子の李亨が勝手に即位、
粛宗(711~762在756~762)となり、事後承諾せざるを得ず退位。
762年(4/15)崩御、享年78歳。粛宗帝も同じくこの年(4/18)に崩御。
続く。
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