桐壷帝・玄宗の傾国は為時からVIII 919
一方、式部は漢詩文・中国史を父から伝授されていた間(14~23歳)
「男性から、詩お届け・お声がけ・お忍び無し」の充実した年月を
過ごしていたのでしょうか?「源氏物語」の展開からして
甚だ疑問が残りませんこと?
創作物語としても恋の駆け引きが奥深すぎると思われません?
取り急ぎ、こちらの件は一旦置いておきます。
「源氏物語 桐壺」に於いて「長恨歌」からの引用は以前紹介しました。
「長恨歌」の為政者に対する「傾国風諭」は
「春宵苦短日高起 従此君王不早朝」
(国立国会図書館デジタルコレクション 長恨歌P11 12行目~)
余りにも素敵な夜明け迄の睦み事に思わず朝目覚めず、
これより「君主(玄宗)」は朝の政務を止めざるを得なかった。
これの引用の一つ目が上記紹介の
「いとまばゆき人の御覚えなり。
唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ悪しかりけれ」と
(国立国会図書館デジタルコレクション 対訳源氏物語P7 14行目)
二つ目が下記になります。
「朝(あした)に起きさせ給ふとても、
明(あ)くるも知らでと思し出づるにも、
なほ朝政(あさまつりごと)は怠らせ給ひぬべかめり 中略
『さるべき契りこそはおはしましけめ、そこらの人の誹り、恨みをも
憚らせ給たず、この御事に触れたることをば、道理をも失はせ給ひ、
今はた、かく世の中の事をも、思しすてたるやうになり行くは、
いと怠々(たいだい)しきわざなり』と、
他(ひと)の朝廷(みかど)の例まで引き出でつつ、ささめき嘆きけり。」
(国立国会図書館デジタルコレクション 対訳源氏物語P15 16行目)
これらの藤式部の表現は「長恨歌」の内容のみならず、
「安史の乱(755~763)」以降(唐滅亡は907年)、
二度と唐王朝の栄華が蘇らなかった史実をご存じだった事になります。
*安史の乱 (日本国語大辞典 精選版 小学館)
唐の玄宗皇帝の末年(755年)に起こった安祿山・史思明の反乱。
玄宗は蜀(=四川)に亡命して退位し、反乱軍も内部分裂を起こし、
763年に平定された。唐朝の中央集権制度は破綻し、
中国古代社会終末の転機となった。
この政治史は父・為時に色恋沙汰を別にして教えて貰ったのでしょう。
続く。
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