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2024年10月26日 (土)

式部の楊貴妃・玄宗は為時からVII 918

藤原為時は986年6月~995年12月迄(38~47歳間 無位無冠)。
式部は14~23歳。既に女性になり多感なお年頃。
一般的には父親が失業中で決まった額の禄を得られないい為「婿取り」
ができず彼女は「お一人様」だったと云われています。
しかし、よくよくお考え下さい。
為時一家は無職・無給でも約10年も生活を維持しています。
公卿クラス程豪華ではありませんが一応「邸宅」をお持ちだった。
彼は「荘園」保有者との記録は存在しません。
従って毎年の滞りない私的年貢収入はないのです。
にも関わらず、
公卿クラス程豪華ではありませんが譲り受けた「邸宅」をお持ちです。
当然、諸々の維持費がかかります。
又、妻帯しお子さんを儲け、式部に比し出来が悪いと云われた惟規を
文章生にする教育費も捻出してます。
彼の父・雅正(?~961)は受領・歌人でしたが為時13歳で死去。
母・定方女は不明も藤原定方は右大臣・従二位の上級貴族でした。
妻・為信女も全く不明。968年為時が播磨国権少掾(3等官)に就任の
後、為時と婚姻、長女・式部・惟規をこの世に。
為時はもう一人奥様がいらして3人の子女を儲けてます。
これらの状況から為時は決して金欠・清貧だったとは思われませんが?
何らかの蓄えを少しずつ取り崩し学者肌らしい悠々自適な研究生活を
日々をお過ごしだったのでと考えます。
一つだけ、臨時収入が見込める「詩宴」参加があります。
確認できるのは
986年春、具平親王桃花閣の宴へ参加
987年夏、具平親王より前年の詩宴での懐旧の詩を賜り作詩してます
993年1月、宮中詩宴へ出席してます
*具平親王(ともひら)(964~1009)
平安中期の文人歌人。62代村上天皇第七皇子。母は代明親王王女、
女御荘子。六条宮・千種殿・後中書王という。二品中務卿に至った。
才芸にひいで、前中書王(中務卿の親王)・兼明親王と並称された。
*兼明親王(914~987)
60代醍醐天皇の皇子。源朝臣の姓を賜わり、左大臣となる。
詩文、書にすぐれ、「池亭記」を著わす。前中書王。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
てな感じで、彼は漢詩文知識・作成能力を買われてます。
朝廷、及び、この時代文人随一の具平親王サロンに出席しているの
ですから公卿らからの参加依頼は数多だったと思われます。
官職に就いてない長期間の為時は漢詩文学・中国史を極める時空が
たっぷり。式部にもきっちり教え込むお時間も十二分。
しかしながら、
白氏文集「長恨歌」の楊貴妃・玄宗の恋の関係性について
どの様に伝授したかは甚だ心許ない感じがするのですが
皆さん、ここの所、どう思われます?
男親からご自分のお嬢さんには男女の機微を伝えきれないでしょう?
式部は「玄宗皇帝⇔楊貴妃」の構造を「源氏物語」で
「桐壺帝⇔優れて時めく更衣」に比定しています。
確かに、「悲恋」と「傾国」を織り込んでいますが・・・・・。 続く。

Kiku5

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