世界三大美女 豊満な楊貴妃II 913
楊玉環を見いだし、宮廷に導き入れたのは玄宗の妃「武恵妃」さん。
彼女はご子息の寿王(→李琩)のお嫁さんにしたく招き、成就。735年
「開元初 武惠妃特承寵遇 故王皇后廃黜 二十四年(736)恵妃薨
帝悼惜久之 後庭数千 無可意者 或奏玄琰女姿色冠代
宜蒙召見 時妃衣道士服 号曰太真 既進見 玄宗大悦
不期歳 礼遇如恵妃 太真姿質豊艶 善歌舞 通音律 智算過人
毎倩盼承迎 動移上意」
(旧唐書 巻五十一 列伝第一 后妃上 楊貴妃)
王皇后が廃される(724年)と武惠妃は玄宗に特に目をかけられた。
武惠妃(690?~737〈開元25年〉)旧唐書は開元24年亡くなったと。
彼女は武則天さんの従姪(ジュウテツ従兄弟のお嬢さん)。
武一族故(かの時代武則天は疎まれていた)、玄宗は彼女の立后を
望むも近侍の官吏達の駄目出しが出されてしまったのです。
玄宗は悲嘆に暮れる余り、数多いらっしゃる後宮の女性には興味を
示されません。そんな折り、ひょんな事から息子・李琩(瑁)の奥様、
楊玉環の事が耳に入り、遭遇、彼女の美貌に一目で胸どっきゅん。
この時(738年)、玄宗54歳、李琩24歳、楊玉環20歳。
旧唐書には記述されていませんが、あろうことか玄宗は息子から
彼女を取り上げてしまうのです。
わざわざ、一旦、表向き玉環を道教の女同士(道号は太真)にし
温泉宮(後の華清宮)に住まわせます。玄宗はここにて逢瀬を。
*華清宮(日本国語大辞典 精選版 小学館)
中国唐代、長安の南東、驪(リ)山(陝西省臨潼県)にあった離宮。
唐代初期に造営された温泉宮を玄宗が改名したもの。
玄宗はしばしば楊貴妃を伴って遊んだ。
「太真(玉環)姿質豊艶 善歌舞 通音律 智算過人」
太真(玉環)資質豊艶にして歌舞を善くし音律に通じ智算人に過ぐ。
(彼女は容姿端麗・豊満色香溢れるばかりか、歌・踊りが上手、
音感リズム感にも優れ、そればかりでなく頭脳明晰で心配りも抜群。)
更にいつでも殿のお越しを心よりお待ちいている準備万端体制。
こんな女性は一体何処にを覚える完璧な容貌・物腰のお方。
これには世の殿方が心と体を奪われるのは至極当然では???
続く。
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