中華王朝唯一の女帝 武則天V 911
先週、NHK BS 3の「中国王朝 英雄たちの伝説 則天武后」から
官僚達の話を紹介しました。
今週はその情報で目が三角になった話を取り上げます。
2018年陝西省咸陽市で出土、武則天・周時代の将軍「蘇」の墓を発見。
その墓の壁画がなな、何と「フレスコ(伊語で新鮮な)画」だったと。
フレスコ画は
先に漆喰を塗ってその漆喰が乾く迄の間に絵の具を塗る手法で
彩色された顔料の風化スピードを遅くする技。
この情報を耳にする迄、
フレスコ画はルネサンス発祥地、フィレンツェ初と思ってました。
番組ではシルクロードで東ローマ帝国から伝わった技法で
彼女は「中華王朝国際化の扉を開いた魁け」と語っていました。
もう一つ、先々週の女性官僚、上官婉児さんの件。
2013年9月彼女のお墓と墓誌が発見されたと。
こちらも又、陝西省咸陽市で見つかったとの事です。
「則天武后の側近・上官婉児の墓 陝西省で発見」(Science Portal China)
「李隆基(後の玄宗)が710年に政変を起こし韋皇后を処刑すると」の
韋皇后は李顕(=中宗)の奥様。李顕は李治(=高宗)7男母武則天。
武則天も晩年寄る年波に勝てず病がち。この期に官僚達は内紛、その
結果705年武則天は退位(1/24)に追いやられ、同じ年11/26崩御。
息子の李顕は再び皇帝に。
李顕→中宗(唐4・6代皇帝656~710在683~684 705~710)。
同じく、韋皇后も再び皇后に。前回は2ヶ月弱の皇后位でした。
彼女は武則天に憧れたのか?女帝を目指します。
先ずは夫を毒殺(710/6/02)、お次は李顕の末子・李重茂を皇帝に。
李重茂→殤帝(唐7代皇帝695~714在710/6/07~24)。
ところがどっこい、それは許さじと
武則天の孫・李隆基(後の玄宗)が韋皇后殺害(710/6/20)。
この同じ日に上官婉児さんも殺害されてしまいます。
彼女のお墓の所在が長年不明だったのですが今回お出まし。
墓誌(墓主の生涯を記したもの)には中宗に数回諫言した事実が。
又、一緒に埋葬された俑には(上官婉児)騎乗像が有り、
その衣装は「男官吏が着用する男装」だったと。
(墓誌と俑はNHK BS 3情報、又、男装ファッション人気だったとも)
事実は不明も女性が馬に跨がるのですから自然では・・・・・?
彼女は李顕の側室ですので通常墓地所在地が皇帝埋葬地近辺の所、
男性高級官僚が眠る墓地空間にあったとの事。
彼女はあくまでも官吏として認識されていた事実では。
そして李旦が再即位(710/6/24)。李旦は李治(=高宗)8男母武則天。
李旦→睿宗(唐5・8代皇帝662~716在684~690 710~712)
その睿宗が即位2年後、息子・李隆基に譲位。
いよいよ玄宗皇帝時代へ。 続く。
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