中華王朝唯一の女帝 武則天II 908
彼女はとかく「悪女」とされてますが、然に非ず(さにあらず)。
とても「先進的」な女性。何せ、脈々と続いた男性社会を覆したお方。
彼女は後宮入宮後、入念な準備を重ね、企図し続け、皇后になり、
男尊女卑を標榜する儒教・道教よりも
「全て衆生を救う」と云われる仏教を重んじる宗教政策を推進。
昔、北魏(386~534)が平城(現山西省大同市)から洛陽に
遷都(494年)以後、製作し続けた「龍門石窟」に
多額の寄付をし石窟最大規模の「奉先寺(ほうせんじ)洞」を造営。
(盧舎那仏奥の創建説明碑文には「二万貫奉」と)
*平城・・・現山西省大同市
そもそも、石窟寺院はインドが発祥(現印西部のアジャンタ石窟等)。
一部仏教集団が布教活動の旅→中央アジアのバーミヤーン遺跡→サマルカンド
→敦煌石窟(現甘粛省敦煌市)→平城雲崗石窟→洛陽龍門へと。
シルクロード畏るべしって感じ。
*バーミヤーン遺跡はターリバン戦士の破戒した映像記憶が蘇りません?
北魏は「鮮卑拓跋部族 珪 北魏建国」でご確認を。
尚、北魏(386~534)~唐へは下記の経過を辿ります。
北魏が東魏(534~550)と西魏(535~556)に分裂、それらが各々
東魏 → 北斉(550~577 北周に敗北)、
西魏 → 北周(556~581) →隋(中華王朝再統一581~618)→唐
又、彼女が帝位に即く根拠を作成します。
北涼の曇無讖(どんむしん)が漢訳した「大方等無想大雲経」を付会。
*北涼(397~439)→現甘粛省に存在した国で北魏に倒される
*曇無讖(385~443)→漢訳経僧 印中部で生誕
故有り、涅槃経・菩薩戒経等を持ち印→敦煌→北涼に この地で漢訳
*付会・・・つなぎ合わせ、こじつけ
要は「大方等無想大雲経」の一部に付け足し改変したのです。
それは表紙タイトル
「大方等大雲経 北涼天竺三蔵法師曇無讖訳」
付会は「以女身当王国土(女の身を以てしても王・国土を当てるべし)」
《女性であっても(国を治めるに相応しければ)王となれば良い》
そしてこの付会経典を即位前年689年国中に送・配付したのです。
彼女の強い執着・信念が伝わってきそうでは?
凄まじき彼女の偉業は日本にも影響を与えてます。
光明皇后が723年興福寺内に「悲田院・施薬院」を設置。
(則天武后は悲田(貧民救済)養病坊〈701~704〉を設営してます。)
聖武帝が743年東大寺盧舎那仏像造立の詔(東大寺)を発布
(奉先寺洞に巨大な盧舎那仏〈高さ17m強〉の彫刻磨崖仏)
同性の光明皇后はより心を動かされたのではと思われますが?
続く。
ところで、猛暑続きの今日この頃、暫し「夏休み」を頂きます。
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