恵信・覚信尼は比丘尼に非ず 903
ところで、恵信尼・覚信尼親子は「尼」とご自分を表現しています。
お二人は以前お話しましたように「親鸞に帰依する女性」で
「親鸞(思想)共感・共鳴・共棲女性(尼)」。
従って、普通名詞の「比丘尼(出家受戒女性)」とは異なります。
恵信尼さんのお手紙には
「御念佛(仏)申させ給て極楽へ参りあわせ給へし」とありますので、
「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えると「極楽」往生できると
彼女は少なくても信じておられました。
親鸞(思想)のみを媒介として、彼女は
西方極楽浄土を拠点とし、生あるもの全てを救う「阿弥陀如来」を
信奉・信頼、拠り所としていたのです。
一方、お嬢さんの覚信尼さんについて
*覚信尼(1224~1283?)
鎌倉中期の尼僧。親鸞の娘。母は恵信尼。
日野広綱に嫁して覚慧(1239?~1307)を、
小野宮禅念と再婚して唯善を産む。
親鸞の没後、京都東山大谷に廟堂を建て、本願寺の基礎を築く。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
*京都東山大谷廟堂
「龍谷山本願寺大谷本廟の沿革」にてご確認下さい。
「恵信尼さんの最後のお手紙」の10通目が1268年の晩春3月着です。
従って、王御前さんはこの年、45歳以降に「覚信尼」さんに。
覚信尼は1282年に亡くなったとされています。
一方、覚信尼が初めて「覚信尼」と呼ばれたのは
1275年に書かれた文書である「本願寺文書」とされているとの事。
京都在住の覚信尼さんが父、親鸞の「墓守」担います。
この「墓守」が「大谷廟堂留守職」となり、彼女の他界後、
この役を息子の覚慧(恵)が引き継ぎます。
やがて、この「大谷廟堂」が紆余曲折を経て覚恵の息子、
覚如(1270~1351)により寺院となり号を「本願寺」に(1321年)。
「本願寺」号の「本願」は
「念仏→信心⇒阿弥陀如来の誓願=「本願」により往生(絶対他力)」
からの命名と思われますが・・・・・。
但し、
官僧籍剥奪された後の親鸞は「非僧非俗」で寺院・教団等々不必要、
と云うよりもそれらの存在自体認めておりませんことよ。
尚、上記の構造は「親鸞 非僧・非俗 絶対他力」でご確認下さいませ。
続く。

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