恵信尼と親鸞のお子さん達 897
恵信尼さんと親鸞との婚姻が「建永の法難還俗配流」の後の場合は
僧籍を剥奪されてますので破戒にならず全く問題は生じません。
お二人はとても仲睦まじかった感じ。
何せ、お子様が7人いらっしゃったとか。但し、
内お一人は継母説、
もうお一人は、なな何と、九条兼実のお嬢さん(玉日姫)母説があると。
兼実(1149~1207/4/05)は親鸞配流宣旨(2/28)直後に亡くなってます。
*九条兼実
平安末期、鎌倉初期の公卿。摂政、関白、太政大臣。従一位。
藤原忠通の三男。慈円の兄。九条家の始祖。月輪・法性寺殿とも。
源頼朝の後援で摂政となり、後白河院政のもと勢力の伸長を
はかったがはたさず、政敵源通親と対立し、のち失脚した。
浄土信仰にあつく法然を敬仰した。又、和歌をよくし、
日記「玉葉」はこの時期の政局を詳細に記したすぐれた記録。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
(お子様7人情報は「日野一流系図〈蓮如の息子・実悟作成〉」説)
*蓮如(1415~1499)
室町後期の浄土真宗の僧。本願寺第八世。浄土真宗中興の祖。
本願寺第七世存如の長子。青蓮院尊応・興福寺大乗院前門跡経覚に
学ぶ。長祿元年(1457)本願寺を継ぎ、
浄土真宗の教団に大きな発展をもたらした。
特に、寛正六年(1465)比叡山の圧迫を受け、越前吉崎に移った
文明三年(1471)以後の活動にはめざましいものがあった。
同一〇年山科の地に移って、同一五年山科本願寺を建立。
明応五年(1496)には大坂に、のちの石山本願寺を建立。
「日野一流系図(1541年)」に依ると
(日野系図 西岸寺 浄土真宗本願寺派 親鸞聖人ご旧跡資料1)
親鸞の父は「日野有範」、恵信尼さんの父は「三善為教」と。
1 範意(印信)⇒玉日姫母説
2 女子(小黒女房)《三善為教女法名恵信》
3 善鸞(慈信房)⇒玉日姫母・恵信継母説
4 明信(栗沢信蓮房)
5 有房(益方太夫入道 道性)
6 女子(高野禅尼)
7 女子(後の覚信尼)→覚恵→覚如
従って、恵信尼さんは少なくても5人のお子さんに恵まれた事に。
続く。

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