親鸞 非僧・非俗 絶対他力 895
還俗・配流の宣旨(1207/02)により(1211/11赦免)
親鸞(1173~1262)は35歳で越後国府中へ赴きます。
(因みに、お釈迦さまは35歳で仏のさとりを開かれたとか。)
彼は越後の民との生活を余儀なくされます。
そして、彼はこの時空間で「発想の大転換」をなし得たのです。
既存の「非俗」=「僧」が「非俗」→「非僧」を意味する事に。
又、「非僧」=「俗」ではなく「非俗」そのものに。
(僧籍剥奪された事による、単なる「僧に非ず」ではないですよ!)
こうして、親鸞は「非僧・非俗の念仏者」に。
彼の根本思想は「絶対他力本願」。
「絶対」とは無条件に・断じて・完璧に。
「他力」とは「阿弥陀如来の力(決して他人の力ではありません)」。
「本願」とは「阿弥陀如来の誓願」。
「阿弥陀如来」とは西方極楽浄土に住まう生あるもの全てを救う仏様。
*大乗仏教
「大」は広大または偉大の意、
「乗」は悟りの彼岸へ到達させる乗物の意。 仏語。
紀元前一世紀頃から起こった新しい仏教。伝統仏教(小乗)が
主に修行による個人の解脱(=悟り)を説いたのに対して、
利他救済の立場から広く人間全体の平等と成仏を説き、
それが仏の教えの真の大道であるとする教え。
中国・日本に伝わった仏教の宗派は、ほとんどこれに属する。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
親鸞の「他力思想」は、お弟子さん記述の「歎異抄」に子細あり。
「信心さだまりなば往生は弥陀にはからはれまいらせてすることなれ
ば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけてもいよいよ
願力をあふぎまいらせば、自然のことはりにて柔和忍辱のこころも
いでくべし。すべてのよろづのことにつけて、往生にはかしこき
おもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩に深重なること
つねにおもひいだしまいらすべし。しかれば念仏もまうされ
さふらふ、これ自然なり。わがはからはざるを自然とまうすなり、
これすなはち他力にてまします。」
(国立国会図書館 電子図書館 歎異抄 P16 11行~)
上記の歎異抄を希有な思想家が訳されています。
「信心さだまったならば、往生ということは弥陀のはからいのままに
することだから、じぶんのほうのはからいであってはならない。
悪いときにつけても、いよいよ願力を仰ぎ申し上げれば、
自然の理によって、柔和・忍辱のこころもでてくるだろう。
すべて万事のことにつけて、往生には、賢いおもいを伴わずに、
ただほおけたように弥陀の御恩の深重なことを、普段はおもいだし
申すべきである。そうするとひとりでに念仏も口にでて申される
ようになります。これが自然です。
じぶんのほうではからわないのを、自然と申すのです。
これがすなわち、他力であるのです。」
(最後の親鸞 吉本隆明 ちくま学芸文庫 P172歎異抄16私訳)
決してご自分で(気持ちを)計らってはいけません!って事よ。 続く。
来週からは「黄金週間」にて暫しお休みを頂きます。
それでは、又、皆さんお元気で。

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