999年 定子は男児出産 彰子は入内 884
藤原道長のお嬢さん彰子(988~1074 87歳)(大河演 見上愛)は
999年霜月12歳で一条帝(20歳)の後宮へ入ります。ちょうど、
定子さん(23歳)が男児敦康親王(999~1018 20歳)を出産された月。
彰子さんの「裳着(女性の成人儀礼)」がこの年の如月に挙行。
従って、ちゃきちゃき・成り立て「成人女性」って事よ。
翌年(1000年)の如月、彼女は早くも中宮に冊立されています。
道長にとって999~1000年はとても危機的大事な時空だったのです。
何しろ、定子さんには後ろ盾がないものの一条帝にとって
この時点では後継者になる初親王だったわけですから。
道長は何が何でも、お嬢さん彰子に男子誕生を所望したのです。
この早急な段取りは道長の慌てっぷりを物語っています。
又、道長は立場上仕様がないとは云えばそれ迄ですが
あからさまな「定子さん虐め」をされています。
「枕草子」がそれらを朧気に臭わせています。
定子さんの第二子敦康親王出産は「大進(平)生昌邸」だったと。
この生昌の兄が平惟仲(944~1005)(大河演 佐古井隆之)。
惟仲・生昌は父の受領先から上京(平安京都)し大学寮(官吏養成所)
に入り文章生(紀伝道〈中国正史・文選・詩文〉専攻学生)に。
二人は漢学を猛勉強したのか官僚として順調に昇進、平惟仲は
藤原兼家(摂政)の家司(親王・内親王・上達部家世話係)に。
999年中宮職の大夫(長官)就任も道長の顔を伺い半年ばかりで辞任、
その後、道長も中宮職の大夫を空席にした為、
定子さんは惟仲の弟・生昌(中宮職の大進〈№3〉)のお家で
出産する羽目に陥ってしまったんですよ。
「枕草子」でこの件は
「春は曙~」「頃は正月~」等々感情吐露の「をかし章段」等に続き、
「大進生昌が家に宮(定子さん)の出でさせ給ふに(中宮行啓)~」と
初めて具体人名を記した「回想章段」として登場します。
内容は「枕草子 大進生昌 牛車 門 于定国」で検索確認下さいませ。
これらのお話しを織り交ぜさりげなく語り「道長って いとわろし」と。
更に、道長はこの行啓日に意地悪くも宇治別荘(後の平等院)に
お出かけ。「機を見るに敏」で「媚び売り」取り巻きはこぞって随行。
従って、中宮行啓イベントは散々で寒々しい始末。
それにも、枕草子は決してめげず、明るく振る舞う顛末。いとをかし。 続く。
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