1000年 定子 女児出産も崩御 885
先週、「大進生昌が家に宮の出でさせ給ふに(中宮行啓)~」を紹介
しましたので
もう一つ一条帝と定子さんの仲の良さが醸し出ている所を。
枕草子のかなり終わり部分に近い章段になります。
「一条の院をば今内裏とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、
その北なる殿におはします。」
この一条院邸は詮子(東三条院)御所になります。
詮子が以前の持ち主、藤原為光(942~992)(大河演 阪田マサノブ)
から譲り受けた邸宅です。為光は兼家の異母弟になります。
「今内裏」とは999年6/14内裏消失の為、この一条院が仮御所に。
(内裏修復新造落成は1000年10/11 ←日本史辞典 角川書店)
当然、この間、一条帝はこの一条院にいらっしゃいます。
定子さんは999年霜月に大進生昌邸で
敦康親王(999~1018 20歳)をこの世に。
一条帝にとり初子親王、逢いたくて(定子)会いたくて(親王)・・・・・。
翌1000年2月にこの仮御所にて「百日の儀」を執り行ってます(2/18)。
*百日の儀・・・生後100日目の小児に食事を食べさせる祝いの儀式
(日本国語大辞典 精選版 小学館)箸初めの儀とも。
定子さんはお嬢さん(脩子内親王)も連れ、前もって訪れ3末迄滞在。
この時空にて彼女は一条帝の寵愛をねんごろに賜りめでたく懐妊。
彼女は大進生昌邸に戻ります。
その一ヶ月後の出来事が枕草子の後半に描写されています。
「三条の宮におはしますころ五日の菖蒲の輿などもて参り
薬玉参らせなどす。若き人々御匣殿など薬玉して
姫宮(脩子内親王)若宮(敦康親王)に着け奉らせ給ふ。」
三条の宮→平生昌邸
五日の菖蒲の輿→5月5日の節句(粽=茅巻を食する日)
*薬玉(くすりのたま)
五月五日の端午の節供に、邪気を払い、不浄を避けるものとして
柱や簾(すだれ)にかけたもの。
麝香(じゃこう)、沈香(じんこう)、丁子(ちょうじ)などの香料を
錦の袋に入れ、円形にして糸や造花で飾り、菖蒲や蓬をあしらい、
五色の糸を長く垂らしたもの。(日本国語大辞典 精選版 小学館)
御匣殿(みくしげどの)→定子の妹(?~1002)さん
皆さんとっても楽しくお過ごしだったと思われます。
そして、定子さんの出産予定月日は1000年師走。
予定通り12月に今度はお嬢さん、
媄子内親王(1000~1008 9歳)をこの世に。
ところが、
彼女は後産が芳しくなく崩御、御年24歳で生涯を閉じてしまいます。
一条帝の「一帝二后」は10ヶ月にて解消、中宮は彰子さんお一人に。
これ以降、道長の独壇場の世の中に。 続く。
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