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2023年12月16日 (土)

戒壇院正式受戒尼僧は不在 881

自誓・受戒した覚盛は「律宗(戒律死守・実践にて成仏)」復興努力
の途上、比丘尼(女性僧)不在の事態を憂慮します。
とは云うものの、女性が正式受戒して尼僧になったお方はおりません。
文献に最初に登場する尼僧は「善信尼」さん。
*善信尼
わが国最初の尼。六世紀末頃の人。司馬達等の娘。
渡来僧恵便に従って得度し、善信尼と称する。
百済に渡り、戒律を学んで帰国後、桜井寺に居住、
諸尼を得度させた。生没年不詳。
*司馬達等(シバタツト)
中国、南梁の人。継体天皇一六年(522年)に来日して帰化し、
大和高市郡坂田原に草庵を営み、仏像を安置したと伝えられる。
息子の多須奈、娘の島は出家してそれぞれ徳斉、善信尼を号し、
孫に鞍作止利がある。生没年未詳。
*得度・・・剃髪して出家すること。僧侶になること。
(*は全て日本国語大辞典 精選版 小学館)
「百済留学 女性(善信尼)達」
飛鳥時代には、一定数の尼僧が存在していました。
又、厩戸皇子(大王)の時代には、尼僧が数多いらした思えます。
時代が下り、
754年に光明皇太后(701~760)と孝謙帝(718~770)のお二人は
鑑真より受戒しますがその後に尼僧になっておりません。
翌755年に東大寺の「授・受戒」可能な戒壇院が設立されます。
しかし「女性は受戒禁止(当時の仏教政策上)」とされましたので
基本的に「比丘尼(受戒済女性僧)」は存在しないのです。
815年に嵯峨帝(786~842)のお后橘嘉智子(786~850)さんが
「檀林寺」建立されます。このお寺は「尼寺」とされています。
と云う事は、尼僧がいらした事になるのですが・・・・・?
827年に延暦寺戒壇院が創建も「女人禁制」から女性受戒不可能。
女性は東大寺でも延暦寺でも受戒できないのです。
ところが、どっこい、嵯峨帝のお嬢さん、正子内親王(810~879)が
淳和帝(786~840)の奥様(827皇后)になられた後、
帝崩御に伴い「落飾」、842年の政変により「出家」、
860年に最後の遣唐使・延暦寺(天台)座主円仁(794~864)より受戒。
その後、彼女は尼僧として過ごされたかは不明。
但し、仏教を篤く信仰され淳和帝の離宮、淳和院を「尼寺」にされたと。
かの時代、正式授戒できない女性でも仏教に帰依していた方々が
この「尼寺」等で「尼僧」として存在していたのかも知れません。
更に彼女は父嵯峨帝の離宮嵯峨院を「寺(大覚寺)」に改装、
僧尼が修行・勉学できる空間にしたとも云われています。
*落飾
髪を剃りおとして仏門に入る事。身分の高い人についていう。
*出家
家を出て仏門に入る事。俗世を離れ仏法修行の道に入る事。
*仏門に入る
出家する。仏道に帰依する。僧になる
(*は全て日本国語大辞典 精選版 小学館)
この説明では繰り返し迷宮に陥ってしまいますので一先ず中止。
更に時が流れ、
1027年一条帝(980~1011)の中宮、彰子さん(988~1074)ですが
2024年大河「光る君へ」でどんな展開が・・・・・? 続く。

ところで、今年もお世話になりました。
2023年度の出稿は本日でお仕舞いです。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さい。

Tubaki6

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