信如さん 中宮寺 中興の祖に 878
いよいよ「太子伝聖誉鈔(抄)」の最後になります。
タイトル 繍帳正文云々
「歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入ニ孔部間人公主母王崩シ玉フ
明年二月廿二日甲戌夜半ニ太子崩
文永十一年(1274年)ノ春始テ本願ノ御忌日ヲ知り玉フ
乙亥年今年改元建治元年(1275年)ナリ中宮寺の信如長老
其ヨリ本願ノ御忌ヲ知リ毎年ニ御訪イ懇也 今ニ至ル迄退転ナシ
又橘寺ハ推古天皇本願三月七日御忌也
太子伝ニハ天寿国ノ多羅ノ出現ヲ以大略滅後ノ伝ノ㝡結句トスト云々
柳天寿国ト云フ者无量寿国也無量寿国トセン
西方極楽世界九品三輩ノ臺(=台)也」
(東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P51 9行~)
*柳天寿国→天寿国曼荼羅繍帳 《赤字は不明》
信如長老さんは念願の「間人皇女忌日(12/21)」を知り(1274年)、
この年は当然、以降も毎年この日に「法要」を執り行ったとの事。
又、「玉林抄」に依りますと、
1275/08(建治元年)新曼荼羅繍帳完成、後、太子曼荼羅講式を作成、
その3年後(1278年3月21日)に信如長老さん念願の「中宮寺棟上式」
が挙行され、「新曼荼羅繍帳」は法隆寺に奉納されたと。
勿論、この奈良中宮寺棟上式には
曼荼羅解読者、定円さんはご出席されています。
修理を施された「旧曼荼羅繍帳」は中宮寺信如長老さんが確保。
何れの御時にか?「新曼荼羅繍帳」も中宮寺が保管することに。
これにて、信如長老さんは「中宮寺 中興の祖」になられたのです。
信如さんは1211年?生まれ、少なくても1278年迄お元気のご様子。
又、橘寺と推古帝の情報も記述されています。
「孔部間人公主母王=穴穂部間人皇后」が「橘寺の厩」の前で
厩戸皇子(大王)をお産みになった事(言い伝え)。
厩戸皇子(大王)の妃のお一人、「橘大郎女」さんが「推古帝」に
「天寿国曼荼羅繍帳」を提案、「推古帝」も悦び賛同して製作に至った
経緯からか?
橘寺は推古帝の忌日(3/7)に法要をされていると。
この後は仏教用語関係ですので省略いたします。
尚、この下巻写本は1547年10月11日に終了と。(上巻は9/28終了)
(東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P52)
続く。
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