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2023年11月25日 (土)

信如さん 中宮寺 中興の祖に 878

いよいよ「太子伝聖誉鈔(抄)」の最後になります。

タイトル 繍帳正文云々
「歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入ニ孔部間人公主母王崩
 明年二月廿二日甲戌夜半ニ太子崩
  文永十一年(1274年)春始本願御忌日玉フ
  乙亥年今年改元建治元年(1275年)ナリ中宮寺の信如長老
  其ヨリ本願御忌知リ毎年御訪懇也 今迄退転ナシ
  又橘寺推古天皇本願三月七日御忌也
  太子伝ニハ天寿国多羅出現ヲ以大略滅後㝡結句トスト云々
  柳天寿国ト云フ者无量寿国也無量寿国セン
  西方極楽世界九品三輩臺(=台)也」
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P51 9行~)
 *柳天寿国→天寿国曼荼羅繍帳 《赤字は不明》

信如長老さんは念願の「間人皇女忌日(12/21)」を知り(1274年)、
この年は当然、以降も毎年この日に「法要」を執り行ったとの事。
又、「玉林抄」に依りますと、
1275/08(建治元年)新曼荼羅繍帳完成、後、太子曼荼羅講式を作成、
その3年後(1278年3月21日)に信如長老さん念願の「中宮寺棟上式」
が挙行され、「新曼荼羅繍帳」は法隆寺に奉納されたと。
勿論、この奈良中宮寺棟上式には
曼荼羅解読者、定円さんはご出席されています。
修理を施された「旧曼荼羅繍帳」は中宮寺信如長老さんが確保。
何れの御時にか?「新曼荼羅繍帳」も中宮寺が保管することに。
これにて、信如長老さんは「中宮寺 中興の祖」になられたのです。
信如さんは1211年?生まれ、少なくても1278年迄お元気のご様子。
又、橘寺と推古帝の情報も記述されています。
「孔部間人公主母王=穴穂部間人皇后」が「橘寺の厩」の前で
厩戸皇子(大王)をお産みになった事(言い伝え)。
厩戸皇子(大王)の妃のお一人、「橘大郎女」さんが「推古帝」に
「天寿国曼荼羅繍帳」を提案、「推古帝」も悦び賛同して製作に至った
経緯からか?
橘寺は推古帝の忌日(3/7)に法要をされていると。
この後は仏教用語関係ですので省略いたします。
尚、この下巻写本は1547年10月11日に終了と。(上巻は9/28終了)
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P52
 続く。

Kiku5

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2023年11月18日 (土)

曼荼羅解読 間人皇女忌日確定 877

ここからの読み解き現本写本は「信如房悦て」でご確認下さい。
お話を元に戻します。
信如房さんはご縁を使い、京都在住の花山院師継と定円さんに
お二人ご一緒で京都某所にて御覧頂く段取りを取ります。
そして、乱雑になっていた400文字100亀を並べ替え作業を成し遂げ
お二人共に同じ読みに辿り着いたのでした。
そちらの内容は以前「天寿国繍帳 亀の甲四文字1~3」
で紹介しました。今一度ご確認下さい。
確かに、亀甲100ピースの順列を整え読解された
花山院師継と定円さんの博学ぶりには頭が下がる思いです。
更に驚くことに定円さんは読み取り「天寿国曼荼羅繍帳」のコピー、
「新曼荼羅繍帳」を製作されるのです。
それも翌年(1275年)8月に完成の日の目を。
「亀・四文字×100」全て刺繍で表現しているのです。
これにて信如房さんは大願成就、
厩戸皇子の母、間人皇女さんの命日が12月21日と判明。

タイトル 御忌日事
「曼荼羅文に歳(←トシツキ)在辛巳(621年)十二月廿一日癸酉日入
 上宮太子御母儀間人皇女御入滅アリ
 明年二月廿二日上宮太子御入滅アリ。」
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P51 5行~)

「忌日」が「辛巳(621年十二月廿一日癸酉日入」の「癸酉」について。
621年時点での暦は「元嘉暦」使用から「甲戌」が正しいのですが?
「癸酉」は「儀鳳歴」換算からとの問題が生じます。
「日本書紀神代→安康帝 698年~執筆」にて、
「儀鳳歴」は690年~(「元嘉暦」併用)、698年から単独使用です。
旧「天寿国曼荼羅繍帳」は少なくても690年以降の製作とは
とても思えませんので「単純ミス」では?
それとも、何か企てが・・・・・? 続く。

Kiku5

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2023年11月11日 (土)

霊山定円法印と卜部兼文さん 876

ここからの読み解き現本写本は「信如房悦て」でご確認下さい。
超知識人のもうお一人は「(霊山)の定円法印」さん。
定円さん(1230~1302?)は京都霊山寺の天台僧で勅撰歌人。
*法印・・・法印大和尚の略 僧侶の最高の位 僧正に相当。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
彼は「藤原(葉室)光俊(1209~76)」のご子息。
葉室光俊は藤原定家に師事「新勅撰和歌集」歌人の一人。
*藤原定家(1162~1241)・・・「新古今和歌集」「百人一首」の撰者。
*新勅撰和歌集・・・藤原定家が後堀河天皇の勅宣により撰集し、
 1232年に編纂を開始し、1235年に完成。
(Google Search Labsから抜粋)
尚、定円さんの詳細は下記を御覧下さい。
「霊山法印定円と『法隆寺宝物和歌』」加賀元子(1999年 )P50~
*太子伝玉林抄・・・聖徳太子の伝記「聖徳太子伝暦」の注釈書です。
 室町中期(1448年)に法隆寺僧侶の訓海によって著される。
(Google Search Labsから抜粋)
上記から
1274/4/14 東山で繍帳解読 二人と 平野(神社)神主兼輔(卜部兼文)
1275/08(建治元年)新曼荼羅繍帳完成 後、太子曼荼羅講式を作成
1278/3/21(弘安元年)中宮寺棟上式 新曼荼羅繍帳は法隆寺に
と著述されています。
「玉林抄」は「聖誉抄」と異なり、「曼荼羅繍帳」読解者が三人で
平野神社神主、兼輔(=卜部兼文)、お一人が追加されています。
「曼荼羅繡帳」発見1274年→
「聖誉抄」1394~1428年完成→
「玉林抄」1448年に出来上がり順番です。
更に著者「聖誉」、及び、「訓海」さんお二人とも法隆寺僧侶です。
新たな情報(卜部兼文の件)が追加されのかしらん。
ところで、兼文さんのご子息が「卜部兼方」さん。
「釈日本紀」を著したお方。
彼には以前、
「応神帝5世孫詳細」「垂仁帝7世孫」「伊予国風土記逸文」
で大変お世話になりました。 続く。

Kiku5

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2023年11月 4日 (土)

乱脱も亀甲文字発見 875

ここからの読み解き現本写本は「信如房悦て」でご確認下さい。
文永十一年甲戌二月廿六日⇒1274年2月26日と
記述されていますので「天寿国曼荼羅」を発見・贈答された日に
信如房さんは「中宮寺」にて、しかとご覧になったのです。
すると、なな何と、全て刺繍された亀100匹、
その亀の甲に4文字施こされていたのです。文字は合計400文字に。
(亀甲文字の進化バージョンとはお洒落の極みでは・・・・・。)
但し、「乱脱」に入っていた為、内容が読み取れなかったのです。
中宮寺がある大和国では解読できる方がいらっしゃらなかったみたい。
信如房さんついて、
京・鎌倉の都にいる公卿・武士・僧侶の皆さんはご存じで聡明なお方
との認識。にも関わらず、信如房さんでも解釈不能。
そこで彼女は何とか「乱脱亀甲文字」を読み解く策として、
その時代の超知識人のお力を得る為、京都に赴きます。
その超知識人はお二人、
お一人は「(花山院中納言)藤原諸継(もろつぐ)」さん。
「諸継」と表記されていますが、
このお方は博学と云われる「花山院師継(もろつぐ)(1222~81)」さん。
*花山院
藤原北家の一流。関白藤原師実の二男家忠が花山院を伝領して
家号としたのに始まる。清華家の一つ。
*藤原師実(1042~1101)・・・平安末期の公卿、父は頼通。
*藤原家忠(1062~1136)・・・平安末期の公卿、師実次男。
*花山院
清和帝の皇子貞保親王の住居地。京都府庁の東方、御所の西部。
*清和帝(850~80)*貞保親王(870~924)
*清華家
公家の家格の一つ。摂家につぐ名門で、大臣と近衛大将とを兼ね、
太政大臣にものぼることのできる家柄。
*摂家・・・摂政・関白に任ぜられる家柄。
*近衛大将・・・近衛府(宮中警護)の長官。左右各一人。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
尚、藤原諸継の奥様は「毛利季光」のお嬢さん。
*毛利季光(1202~1247)
鎌倉時代前期の武士で、鎌倉幕府の評定衆を務めました。
大江広元の四男で、相模国毛利荘(現在の神奈川県厚木市)を
譲り受け、毛利氏を名乗りました。毛利氏の初代となります。
毛利氏は、毛利元就を輩出し、戦国時代以降に中国地方で活躍し、
江戸時代には長州藩主となりました。(Google Search Labsから抜粋)
 続く。

Kiku5

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