信如さんの中宮寺復興・修復 868
信如さんが比丘尼になった後の中宮寺復興・修復の事は
タイトル「中宮寺」別枠で記述されています。
「天寿国新曼陀羅ノ裏書云フ 寧楽宮興福寺辺慈性院内ニ
有比丘尼信如ト云フモノ 頃歳発中宮寺修造之弘願ヲ」
*寧楽宮・・・ならのみや=平城宮→奈良
(東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P37 15行~)
*興福寺・・・長期間に渡り権力を保持し続けているあの方々のお寺。
奈良市登大路町にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。
天智天皇八年(669)藤原鎌足の夫人鏡女王(?~683)が、
山城国山階(京都市山科区)に山階寺を創建したのにはじまる。
天武天皇元年(672)大和国高市郡厩坂(=奈良県橿原市)の地に
移して厩坂寺と呼ばれた。和銅三年(710)平城京遷都に伴い、
鎌足の子、不比等が現在地に移し現名(興福寺)に改めた。
以後藤原氏の氏寺として栄え、衆徒は延暦寺の山法師に対して
奈良法師といわれ、北嶺・南都と並称されて恐れられた。
現存する建物は鎌倉時代以後の再建で東金堂、北円堂、三重塔、
五重塔が国宝。 (日本国語大辞典 精選版 小学館)
*慈性院・・・興福寺の子院としてエントリーされています。
興福寺関連旧跡(神殿大観)
信如さんは奈良の都、興福寺辺りの慈性院内がお住まい処。
彼女は「中宮寺修造」をお願いしていたことが窺われます。
390年程続いた平安時代から鎌倉武士の時代になり、
厩戸皇子(大王)にゆかりある「中宮寺」がどの程度
荒れ果てていたかは定かでありません。がしかし、
信如さんの中宮寺復興・修復意志は力強く伝わってきます。
と云うのは、
この情報は「天寿国新曼陀羅」に裏書きされていたそうな。
来週はこの「天寿国旧曼陀羅」発見の経緯を。 続く。

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