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2023年9月30日 (土)

間人皇女御忌日は法隆寺綱封蔵内 870 

太子伝聖誉抄 天寿國曼荼羅起因」の写本の複写はこちらから。
信如さんは中宮寺の長老ゆえに
どうしても中宮寺の創立者、
間人皇女の「御忌日(命日)」を知りたかったのです。
確かに、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文には
「法興元丗一年(621年)歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」
621年12月と月のみで日付は記述されていません。
何とか命日を明らかにしようと思い願う日々。
殊更、「釈迦念仏」(2/15~2/22)には別枠で
「間人皇女御忌日」判明のお祈りも芳しくなかったと。
*釈迦念仏
貞慶が唐招提寺で行なった釈迦大念仏会。
以後、南都律寺で行なわれ、広く流行した。
ところが、この時代南宋を滅ぼし中国大陸を支配した
モンゴル帝国から「脅し国書」から届き、苦慮した「亀山院」の御代。
そんな事には一切構わず、
(まあ、この情報が世に流布していたとは思えませんが・・・・・。)
「文永十年(1273)」例年の2/15よりの「釈迦念仏」がスタートします。
その第6日目、2/20の早朝、「同法ノ比丘尼」が
「夢見でお告げ」を受けたと語ったのです。その内容は
法隆寺の名僧を思われる方がおっしゃるに
穴穂部間人皇女の忌日は
「法隆寺の綱封蔵」に保存されている曼荼羅に記載されていると。
但し、その「綱封蔵」の説明に依ると解錠には「勅符」が必要と。
*勅符
古文書の様式の一つ。大宝令公式令に規定があったが、養老令で
除かれた。国家の重要事件に際して天皇の勅を直接に国司に下す
文書。勅符の伝存するものはない。平安時代になっても、固関、
開関などのときには儀礼的に勅符が内記によって作成された。

とは云うもののこれを聞き「信如長老」は「無限」く大悦び。 続く。

Kikyou

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2023年9月23日 (土)

太子伝聖誉抄 天寿國曼荼羅起因 869

次は中宮寺・法隆寺に於いての「天寿國曼荼羅起因」について。

「中宮寺太子四十六箇伽藍ニハ
 太子御母儀間人皇女御本願ニテ
 本願御入滅日 金堂釈迦光ノ銘文ニモ不分明
 去年十二月此間人皇女御入滅由計ニテ都御忌日不分明
 信如房是無念思テ願是示シ玉ヘト常祈請玉フ
 殊二月十五日ヨリ廿二日マテ八昼八夜ノ間別シテ以
 御忌日 釈迦念仏申玉事毎年退転ナシ
 比丘尼タニ繁昌シテ亀山院ノ御宇
 文永十年二月十五日ヨリ釈迦念仏ヲ始
 年々歳々本願本願御忌日玉ヘト祈悲玉ケリ
 第六日暁朝同法比丘尼語云フ
 此間御嘆ツル本願御忌日今夜夢
 其様法隆寺名僧思ツル人 巻各万タラ持来
 此中本願御忌日㕝(=事)ルヲ
 法隆寺綱封蔵在リト云フ玉フト見侍リト云フ
 綱封蔵トハ勅符綱所承付ル故綱封蔵ト云ナリ
 信如長老聞之悦事無限」
《赤字 ◯・候は不明 漢字・振り仮名に誤謬あるやもお気をつけて。》
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P47 13行~)

太子46箇所の伽藍の内、中宮寺は太子母「間人皇女」が発願・建立。
*本願
寺院・塔・仏像などを創立し、法会を発起する事。又、施主。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
*46箇所の伽藍・・・日本書紀 推古帝に記載有り。
「(624年)秋九月甲戌朔丙子 校寺及僧尼 具録其寺所造之縁
 亦僧尼入道之縁 及度之年月日也 当是時 有寺四十六所
 僧八百十六人 尼五百六十九人 并一千三百八十五人」
*校・・・調べ正す
国立国会図書館 電子図書館蔵書 日本書紀 推古帝P28 9行目~)
但し、聖誉抄は「太子四十六箇ノ伽藍」とありますが、
日本書紀には46全て「太子」由縁とは記述されていません。
因みに、蘇我馬子が建立した云われる「飛鳥寺」はどのような扱いに?
*飛鳥寺
奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺。
推古天皇四年(596)蘇我馬子が最初の本格的寺院として創建。
法興寺、元興寺、本元興寺ともよばれた。現在は、僧坊安居院と
鞍作止利作と推定される釈迦如来坐像(飛鳥大仏)が残る
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
疑問は残るも、624年時点でお寺が46、僧816人・尼569人の存在は
驚きです。女性僧は4割を越えています。男女共同参画空間? 続く。

Kikyou

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2023年9月16日 (土)

信如さんの中宮寺復興・修復 868

信如さんが比丘尼になった後の中宮寺復興・修復の事は
タイトル「中宮寺」別枠で記述されています。

「天寿国曼陀羅裏書云 寧楽宮興福寺辺慈性院内
 有比丘尼信如ト云フモノ 頃歳発中宮寺修造之弘願
*寧楽宮・・・ならのみや=平城宮→奈良
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P37 15行~)
興福寺・・・長期間に渡り権力を保持し続けているあの方々のお寺。
奈良市登大路町にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。
天智天皇八年(669)藤原鎌足の夫人鏡女王(?~683)が、
山城国山階(京都市山科区)に山階寺を創建したのにはじまる。
天武天皇元年(672)大和国高市郡厩坂(=奈良県橿原市)の地に
移して厩坂寺と呼ばれた。和銅三年(710)平城京遷都に伴い、
鎌足の子、不比等が現在地に移し現名(興福寺)に改めた。
以後藤原氏の氏寺として栄え、衆徒は延暦寺の山法師に対して
奈良法師といわれ、北嶺・南都と並称されて恐れられた。
現存する建物は鎌倉時代以後の再建で東金堂、北円堂、三重塔、
五重塔が国宝。 (日本国語大辞典 精選版 小学館)
*慈性院・・・興福寺の子院としてエントリーされています。
興福寺関連旧跡(神殿大観)

信如さんは奈良の都、興福寺辺りの慈性院内がお住まい処。
彼女は「中宮寺修造」をお願いしていたことが窺われます。
390年程続いた平安時代から鎌倉武士の時代になり、
厩戸皇子(大王)にゆかりある「中宮寺」がどの程度
荒れ果てていたかは定かでありません。がしかし、
信如さんの中宮寺復興・修復意志は力強く伝わってきます。
と云うのは、
この情報は「天寿国曼陀羅」に裏書きされていたそうな。
来週はこの「天寿国旧曼陀羅」発見の経緯を。 続く。

Kikyou

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2023年9月 9日 (土)

少輔得業璋円の娘 出家し信如房 867

今日は奇しくも「重陽の節句」も「太子伝聖誉抄」の記述を追います。
先ず、信如さんについて
「笠置ノ解脱上人御弟子四人上足アリ
 光明院覚遍 円玄 良算 璋円 略
 璋円西座党ナリ 璋円落堕少輔得業申ケリ 略
 薬師寺アリケル女性ケリ御ムスメアマタ御
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P40 12行~)

*笠置寺解脱上人・・・貞慶(1155~1213)祖父が信西〈1106~59〉)
興福寺で出家。戒律に厳しく、維摩会・最勝会の講師となったが、
38歳(一説に28歳)の時、山城笠置山に隠棲。
*笠置寺
京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の寺。笠置山頂にある。
山号は鹿鷺山。天武天皇の創建と伝えられ、役小角、良弁などが
修行。南北朝時代には後醍醐天皇の行宮が置かれた。
本尊は摩崖の彌勒菩薩。
*上足・・・優秀な弟子。上席の門弟。高弟。
*落堕
仏語。僧侶が戒を破り放逸にふける事。戒を捨てて還俗する事。
*少輔・・・次官 
*得業・・・決められた仏道修行を修め終える事。
奈良三会(興福寺の維摩会・法華会、薬師寺の最勝会)に参列して
論場で探題の出した問題について理論を述べて答えることをなし遂げた者の称号。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)

「少輔得業ノムス出家セシメテ
 大尼授シメ信如房ト名玉(=給)ケリ 略
 信如房 法花(華)寺 正法寺 中宮寺ノ三ケ寺ノ長老ニテ
 信如長老トヨハレ玉ケリ 云々」
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P43 14行~)
還俗して子をなした璋円さん、彼のお嬢さんは具足戒を授けられ
「信如房」と名付けられたとの事。後には「信如長老」と。
*具足戒
(「具足」は近づくの意で、涅槃に近づくことをいう。) 仏語。
比丘、比丘尼が受持する戒律。
四分律では、比丘は250戒、比丘尼は348戒を数える。
*比丘
仏語。出家して具足戒を受けた男子。転じて、一般に僧をいう。
*比丘尼
仏語。出家して具足戒を受けた女子。尼。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)  
比丘尼が圧倒的に戒律数が多いのは一体どうして?
これって差別ではないのかしら? 続く。

Kikyou

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2023年9月 2日 (土)

膳三穂娘 聖徳太子伝私記 866

法隆寺綱封蔵から天寿国繡帳の発見が1274年です。
それに関わる「信如」さんを
聖誉鈔は120年~150年程後に記述しています。
その箇所は「太子伝聖誉鈔(抄)下」の最後半に登場します。
タイトルは「天寿國曼荼羅起囙(=因)」として始まります。
サブタイトルは「太子三妃事」
膳大娘 髙橋臣ムスメ カシハテノ臣トモ名ノノ
二 河上ノ嬪 馬子ノ宿祢カ娘(=刀自古郎女)
三 尾治王ノ娘 推古ノ御孫也(=橘大郎女)
以後、太子五妃説の紹介と続きます。
 一 菟道貝蛸(日本書紀にての登場人物)
 二 膳大娘(=膳部菩岐岐美郎女)
 三 膳三穂娘
 四 多至波奈大女郎(=橘大郎女)
 五 蘇我馬子臣ノ女(=刀自古郎女)
東京国立博物館 デジタルライブラリー 太子伝聖誉抄下P38~
今回初での三番目 膳三穂娘は聖徳太子伝私記に記載されています。
「膳三穂娘為太子妃矣」
国立国会図書館 電子図書館 聖徳太子伝私記 P51 13行目)
聖徳太子伝私記(=古今目録抄) e国宝には
「聖徳太子伝に関する秘伝や法隆寺の寺誌を記したものである。 略
 13世紀前半に法隆寺の僧侶顕真が上下2巻にまとめ、上巻では
 師匠隆詮から伝授された法隆寺や聖徳太子伝の秘伝を記し、
 下巻では聖徳太子の舎人調使麻呂に関する秘伝と自らが
 調使麻呂直系の子孫であることを述べる。」と説明されています。
上巻1238年に下巻1239~53年の間に成立らしいとの事。
国立国会図書館 電子図書館 聖徳太子伝私記解説 P4 4行~)
こちらに嘉禎4年・暦仁元年→1238年 延応元年→1239年~
仁治3年→1242年~寛元3年→1245年~建長5年→1253年と。
と云う事は「顕真」さんも「天寿国繡帳」の存在はご存じなかった事に
なります。
ところで、膳三穂娘さんに関しては
「知らぬが仏」を決め込み、ここは前へ進む事にします。 続く。

Kikyou

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