法王帝説 皇前曰啓の記載有無 864
先週の「皇前曰啓」の有無の件について
有→中宮寺本と松下見林本
無→国宝知恩院本、及び、狩谷棭斎本(法王帝説證注)等に。
そして、有無を決定づけた尼僧の信如さんとは。
彼女の天寿国繍帳発見は1274年(文永11年)2月です。
この年の10月に「文永の役(元・高麗軍による九州への急襲)」あり。
知恩院本の最初持ち主の相慶さんは平安時代末期のお方との事。
従って、信如さんの新発見は全く知り得ませんので辻褄が合います。
しかしながら、又、ここで新たな疑問が生じます。
知恩院本の原本にも「皇前曰啓」がなかったのかしらん?
「上宮聖徳法王帝説」をもう一度「日本国語大辞典 精選版 小学館」で
確認してみます。
(「上宮聖徳法王」は聖徳太子の古い尊称。「帝説」は未詳。)
聖徳太子関係の伝記資料の集成。一巻。編者不明。
奈良初期に成った部分もあるというが、
現存本の形態は延喜17~永承5年(917~1050)頃の成立とされる。
太子の系譜、事績その他の記録・文書を収め、記紀の所伝と異な
るものが含まれるなど、古代史の史料として貴重。法隆寺の薬師
仏および釈迦仏の銘文、天寿国繍帳の銘文なども引証される。
Web上の「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典」では
「聖徳太子に関する伝記史料を集めた古記録。1巻。
編者は法隆寺の僧であろう。主要部分は弘仁年間 (810~824) 以後
から延喜 17 (917) 年以前に成立し,現在のような形になったのは,
それ以後から永承5 (1050) 年までの間である。聖徳太子関係の皇室
の系譜,太子のひととなりと事業,法隆寺関係の銘文と注釈,太子
関係の歴史事実,欽明以下5天皇の治世と崩年などの記事から成る。
なかには「記紀」その他の所伝と異なるものが多く含まれ,
史料的価値の高いものといわれる。『群書類従』その他所収。」と。
これらの説明から「(法王帝説の)現存本」は1050年頃以前に成立。
更に遡るに「現存本」以前の「原本」は917年以前に成立。
この917年は「聖徳太子伝暦」著者が藤原兼輔(877~933)成立年と
される説からになります。
(兼輔さんは上宮聖徳法王帝説をご覧になって伝暦を作成から)
「聖徳太子伝暦」は570年~645年に渡る厩戸大王(皇子)に関わる
事案を編年体にて記述されている著作。
但し、この917年成立以外に諸説あります。
因みに以前紹介しました「聖徳太子伝暦」、
「厩戸大王 妻3名子女14名」
「再び、中宮寺弥勒菩薩像」等は
「聖徳太子伝暦 平氏撰(=聖徳太子平氏伝)」です。
平基親(1151~?)さんらが撰された説で平安後・鎌倉前期に。
どちらにせよ、信如さん繍帳発見以前ですので問題ありません。
続く。
ところで、猛暑続きの今日この頃、暫し「夏休み」を頂きます。

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