« 法隆寺流記資財帳の薬師・釈迦如来 853 | トップページ | 三度 中宮寺 聖徳太子二歳像着替え 855 »

2023年5月27日 (土)

法隆寺資財帳の「王后」表記 854

先週お話ししましたように「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」と
「法隆寺 金堂 薬師・釈迦如来像光背銘文」とは全く異なる内容です。
その法隆寺資財帳では
☆薬師像について
池辺大宮御宇天皇(→用明帝)
小治田大宮御宇天皇(→推古帝)
東宮上宮聖徳法王(→厩戸大王〈皇子〉)以上3名の方々の為に
丁卯年(607年)、どちら様かが法隆寺に献上。
☆釈迦像について
上宮聖徳法王(厩戸大王〈皇子〉)の為に
癸未年(623年)3月「王后」が施入。
薬師像を献上されたお方が記載されず、
釈迦像を献上されたのは「王后」ですが一体どちら様になるのやら?

「王后(王のきさき)」は王の奥様。
従って、この時点での厩戸大王のお后様は
刀自古郎女・位奈部橘王さんですのでこのお二人の内どちらかに。
「厩戸大王 妻3名子女14名」でご確認を)
この「王后」との表記ですが、
「日本書紀」に一カ所だけ表記されています。

「或本云 至庚申年(660年)七月 百済遣使奏言
 大唐新羅并力伐我 既以義慈王々后太子為虜而去」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 斉明帝 P9 10行~)
この記事は660年、百済が唐・新羅連合軍に攻撃され滅亡した年です。
「義慈王・王后・太子」は唐軍の捕虜となり連れ去られたと。

但し、この記事は「日本書紀」の本編ではなく「或本」の引用記事。
「日本書紀」の本編では「王后」は一切なく、
「后」・「大后」・「皇后」・「皇太后」・「正妃」・「妃」と表記されています。
日本書紀
因みに「古事記」は「后」・「大后」・「皇后」と。
又、この古事記「皇后」表記は
「神功女帝 → 皇后 御年一百歳崩」、
「安康帝 → 取持来其王之嫡妻 長田大郎女 為皇后」、
「清寧帝 → 此天皇 無皇后」の三カ所に。 続く。

Botan

|

« 法隆寺流記資財帳の薬師・釈迦如来 853 | トップページ | 三度 中宮寺 聖徳太子二歳像着替え 855 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 法隆寺流記資財帳の薬師・釈迦如来 853 | トップページ | 三度 中宮寺 聖徳太子二歳像着替え 855 »