« 法隆寺 金堂 薬師如来像 850 | トップページ | 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳 852 »

2023年4月22日 (土)

607年斑鳩寺建立・薬師如来安置 851

先週の「大王天皇と太子は一体どちら様・・・?」の件。
因みに、この薬師如来像光背銘文は不可思議です。
586年を鵜呑みにした場合、
この時点でのトップリーダーは「池辺大宮治天下天皇→用明帝」。
彼の発言で「召於大王天皇与太子」では彼以外に「大王天皇」が
存在することになってしまいます。
日本書紀に於いて、用明帝在位中に「太子(ひつぎのみこ)」を
指定も(馬子らの推挙もなし)しておりません。
この586年では「蘇我馬子」・「物部守屋」の2代巨頭豪族は健在。
既に、敏達帝崩御後、
「帝」は守屋推しの「穴穂部皇子(母は馬子の妹、小姉君 ?~587)」
ではなく、
馬子推しの「大兄皇子→用明帝(母は馬子の姉、堅塩媛」に。
排仏派・守屋v.s.崇仏派・馬子の権力闘争(丁未《テイビ》の乱)は
翌587年、用明帝崩御後7月に勃発、
いにしえからの八百万の神々を信奉する守屋は敗者の運命に。
代  帝名  在位期間          在位年
29 欽明帝 539年12月~571年04月 32年(父継体帝・母手白香)
30 敏達帝 572年04月~585年08月 14年(父欽明帝・母石姫)
31 用明帝 585年09月~587年04月 02年(父欽明帝・堅塩媛)
32 崇峻帝 587年08月~592年11月 05年(父欽明帝・小姉君)
33 推古帝 592年12月~628年03月 36年(父欽明帝・堅塩媛)
天皇系図(宮内庁) 日本書紀
吝か、607年小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王、
推古帝・厩戸皇子の斑鳩寺の建立、薬師如来像の安置を基点にすると
(この時点で銘文も刻印されていたと前提)
「大王天皇与太子」との表現はあたかも用明帝が崩御後、
歴史経緯を予見していたことになるのです。
これはあり得ません。
少なくても「泥部穴穂部妃と厩戸皇子(13歳)を召して」でないと。
用明帝の妹、額田部皇女(後の推古帝)は
前年(585年)、敏達帝に先立たれお一人様でお寂しい?身の上。
それとも、とっても不可思議な表現ゆえに、
穿って考えると607年斑鳩寺の建立、薬師如来像の安置は
「虚偽」ですからお気をつけと?(銘文刻印も後付けと。)
但し、
フェイクにはフェイクにしたい「理由」と「秘め事」がきっとある筈?
 続く。

Ayame

|

« 法隆寺 金堂 薬師如来像 850 | トップページ | 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳 852 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 法隆寺 金堂 薬師如来像 850 | トップページ | 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳 852 »