中宮寺 天寿国繡帳 848
厩戸大王(皇子)の薨去に伴う情報がもう一つあります。
それは厩戸の奥様のお一人、位奈部橘王(=橘大郎女)のもの。
「中宮寺」に伝わる「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」です。
中宮寺はこの刺繍絵画・文字について
「622年聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去の後、宮中の采女
に命じて、太子が往生なされている天寿国のありさまを
刺繍せしめられたものです。 中略
現存するものは往時のほんの一部にすぎませんが、
紫羅の上に、白・赤・黄・青・緑・紫・樺色などのより糸をもって
伏縫が施された繡帳は、鮮麗な色彩を残しております。七世紀中頃
の戦祝技術、服装、仏教信仰など知るうえで
貴重な遺品といえましょう。」と説明しています。
*天寿国
无寿国(むじゅこく)(=無量寿国で極楽のこと)の誤読または誤記と
いわれるが、また彌勒(菩薩)の兜率天ともいい、一定しない。
*伏縫(ふせぬい)
縫い合わせたあとの縫いしろが立たないように、一方の縫いしろ
で他方をつつみこんで布地に倒して縫いつけること。
(日本国語大辞典 小学館)
ここの「文字刺繍」も有り難いことに「上宮聖徳法王帝説」が
書き留めてくれています。
「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩
明年二月廿二日 甲戌夜半太子崩
于時多至波奈大女郎 悲哀嘆息白 畏天(皇前曰啓)
之雖恐 懐心難止使 我大王与母王
如期従遊痛酷无比 我大王所告世間虚仮 唯仏是真
玩味其法 謂我大王応生於天寿国之中
而彼国之形 眼所叵看 悕因図像 欲観大王往生之状
天皇聞之 悽然告曰有一我子 所啓誠以為然
勅諸采女等造繡帷二張 画者 東漢末賢 高麗加西溢
又漢奴加己利 令者 椋部秦久麻」
(国立国会図書館 電子図書館 上宮聖徳法王帝説 P15 4行~)
*(皇前曰啓)は中宮寺本
*「天皇聞之」・・・「天皇」(刺繍表記)とありますがこの時代に?
621年12月 孔部間人(あなほへのはしひと)母王が崩御
622年02月22日夜半 太子(=厩戸大王)崩御
「多至波奈大女郎(たちはなのおほいらつめ)」(=橘大郎女)は
いたく悲しみ・嘆き、太子らの西方極楽浄土に住まう刺繍表現を提案。
先週の「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文」との違いは
622年02月21日 (膳部)王后が死去に触れていない事。
これって、橘大郎女の膳部王后への「羨望・焼き餅・悋気」かしらん?
それとも、(膳部)王后が死去は偽情報になるのやも?
只、ちょいと気になるには「画者(絵画アーティスト)」達、
東漢末賢(やまとのあやのまけん)
高麗加西溢(こまのかせい)
漢奴加己利(あやのぬかこり)
皆さん、来倭された「渡来人」の方々です。なんとまあ! 続く。
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