厩戸豊聡耳皇子命薨去 高麗僧惠慈追う 846
とうに昔々の2008年8/31に「中宮寺 母なる弥勒菩薩像」で
穴穂部間人皇后について触れました。
その節は「弥勒菩薩像のフォルム(形状)」に重きをおしました。
それから約14年程経過した今現在、
今回はこの時代を過ごされた厩戸大王(皇子)らの
「人間模様」・「心情(心音)」・「情緒」等々を考えてみます。
以前、「厩戸皇子 甲午年(574年)生誕」で
「日本書紀」と「上宮聖徳法王帝説」では厩戸大王(皇子)の薨去年が
一年ほど異なるお話をしました。
先ず日本書紀から
「廿九年(621年)春二月己丑朔癸巳
半夜厩戸豊聡耳皇子命薨于斑鳩宮
是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗
少幼者如亡慈父母 以哭泣之声満於行路 乃耕夫止耜
舂女不杵 皆曰 日月失輝 天地既崩 自今以後誰恃或
是月 葬上宮太子於磯長陵 当是時高麗僧惠慈聞上宮皇太子薨
以大悲之 為皇太子請僧而設齊 仍親説経之日 誓願曰
於日本国有聖人 曰上宮豈聡耳皇子 固天攸縦
以玄聖之徳生日本之国 苞貫三統纂先聖之宏猷
恭敬三宝救黎元之厄 是実大聖也 今太子既薨之
我雖異国心在断金 某独生之 有何益矣
我以来年二月五日必死因 以遇上宮太子於淨土 以共化衆生
於是惠慈当于期日而死之 是以時人之彼此共言
其独非上宮太子之聖 惠慈亦聖也」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P23 12行~)
621年春2月5日 「半夜(夜半)」、
(2月朔〈2/1〉が「己丑」《国立天文台 六十干支から》
→〈2/2〉「庚寅」→〈2/3〉「辛卯」→〈2/4〉「壬辰」→〈2/5〉「癸巳」)
「厩戸豊聡耳皇子命」は「斑鳩宮」で「薨(みまか)」った。
諸王・諸臣、及び、天下の民は悉く嘆き悲しんだ。
この月、遺骸を「磯長陵」に埋葬した。
*磯長陵(しながのみささぎ)・・・大阪府南河内郡太子町
*叡福寺 聖徳太子御廟所
*惠慈(?~623)・・・高麗僧 厩戸大王(皇子)の仏法の師
595年来倭、615年に帰国と日本書紀に。
又、彼は厩戸大王(皇子)と道後温泉に使っています。
厩戸大王(皇子)の薨去を高句麗で知り得た惠慈は
大いに悲しみ仏僧を招集「齊(法要)」を執り行ったと。
更に、惠慈は厩戸大王(皇子)の偉功を讃えると共に
不可思議にも「我以 来年二月五日 必死因」と。
622年「上宮太子」の命日に亡くなり、
西方淨土で「上宮」にお逢いになったとされています。 続く。
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