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2023年3月25日 (土)

厩戸の母・妻・上宮の相次ぐ崩御 847

今週は「上宮聖徳法王帝説」を紹介します。
この「上宮聖徳法王帝説」に「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文」が
記述されています。
先ずは「法隆寺」・「金堂」・「釈迦三尊像」・「光背」・「銘文」を
紹介しなければなりません。
しかしながら、これらに関してはとても「奥深く」、不可解・不明な点が
数多く存在しますので取り急ぎここでは触れません。
後に取り上げますので暫しお待ちを。
表面的な情報は「法隆寺」のH.P.でご確認下さい。

ここでは素直に光背銘文と内容を。

「法興元丗一年(621年)歳次辛巳十二月 鬼前太后崩
 明年(622年)正月廿二日 上宮法皇枕病弗悆
 干食王后 仍以労疾並著於床 時王后王子等
 及与諸臣 深懐愁毒 共相発願仰依三宝 当造釈像
 尺寸王身 蒙此願力 転病延寿 安住世間 若是定業 以背世者
 往登浄土 早昇妙果 二月廿一日癸酉 王后即世
 翌日法皇登遐 癸未年(623年)三月中 如願敬造釈迦尊像
 并侠侍 及荘厳具竟 乗斯微福 信道知識 現在安隠 出生入死
 随奉三主 紹隆三宝 遂共彼岸 普遍六道 法界含識 得脱苦縁
 同趣菩提 使司馬鞍首止利仏師造」
国立国会図書館 電子図書館 上宮聖徳法王帝説 P11 18行~)
*法興元丗一年(=法興元31年)
「伊予国風土記(釈日本紀逸文)」、法興六年十月 歳在丙辰⇒596年
より、法興元31年=621年
*時王后王子等・・・この王后、どちら様かは不明
621年12月 前太后(厩戸の母、穴穂部間人皇后)が崩御
622年01月22日 厩戸が病に伏せる (膳部)王后も看病疲れで床に
この事態に「王后(?)・王子等」は
厩戸らの病苦平癒を願い「釈像」製作する事に。
622年02月21日 (膳部)王后が死去
622年02月22日 厩戸大王(皇子)も薨逝
623年03月 釈迦尊像・侠(脇)侍、荘厳具(光背・台座等)が完成
釈像等の製作者は仏師、司馬 鞍首止利(くらつくりのとり)

「法隆寺釈迦三尊像光背銘文の拓本」
(早稲田大学図書館 古典籍総合データーベース)

以前もお話ししました厩戸の薨去年月日ですが
日本書紀→621年2/05
上宮聖徳法王帝説→622年2/22 と程1年の違いが。
更に、法王帝説では厩戸の母・妻・本人、厩戸大王(皇子)が
どうしたことか、相次いでお亡くなりになってます。 続く。

Sakura

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2023年3月18日 (土)

厩戸豊聡耳皇子命薨去 高麗僧惠慈追う 846 

とうに昔々の2008年8/31に「中宮寺 母なる弥勒菩薩像」
穴穂部間人皇后について触れました。
その節は「弥勒菩薩像のフォルム(形状)」に重きをおしました。
それから約14年程経過した今現在、
今回はこの時代を過ごされた厩戸大王(皇子)らの
「人間模様」・「心情(心音)」・「情緒」等々を考えてみます。
以前、「厩戸皇子 甲午年(574年)生誕」
「日本書紀」と「上宮聖徳法王帝説」では厩戸大王(皇子)の薨去年が
一年ほど異なるお話をしました。
先ず日本書紀から

「廿九年(621年)春二月己丑朔癸巳
 半夜厩戸豊聡耳皇子命薨于斑鳩宮
 是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗
 少幼者如亡慈父母 以哭泣之声満於行路 乃耕夫止耜
 舂女不杵 皆曰 日月失輝 天地既崩 自今以後誰恃或
 是月 葬上宮太子於磯長陵 当是時高麗僧惠慈聞上宮皇太子薨
 以大悲之 為皇太子請僧而設齊 仍親説経之日 誓願曰
 於日本国有聖人 曰上宮豈聡耳皇子 固天攸縦
 以玄聖之徳生日本之国 苞貫三統纂先聖之宏猷
 恭敬三宝救黎元之厄 是実大聖也 今太子既薨之
 我雖異国心在断金 某独生之 有何益矣
 我以来年二月五日必死因 以遇上宮太子於淨土 以共化衆生
 於是惠慈当于期日而死之 是以時人之彼此共言
 其独非上宮太子之聖 惠慈亦聖也」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P23 12行~)

621年春2月5日 「半夜(夜半)」、
(2月朔〈2/1〉が「己丑」《国立天文台 六十干支から》
 →〈2/2〉「庚寅」→〈2/3〉「辛卯」→〈2/4〉「壬辰」→〈2/5〉「癸巳」)
「厩戸豊聡耳皇子命」は「斑鳩宮」で「薨(みまか)」った。
諸王・諸臣、及び、天下の民は悉く嘆き悲しんだ。
この月、遺骸を「磯長陵」に埋葬した。
*磯長陵(しながのみささぎ)・・・大阪府南河内郡太子町
叡福寺 聖徳太子御廟所
*惠慈(?~623)・・・高麗僧 厩戸大王(皇子)の仏法の師
 595年来倭、615年に帰国と日本書紀に。
 又、彼は厩戸大王(皇子)と道後温泉に使っています。
厩戸大王(皇子)の薨去を高句麗で知り得た惠慈は
大いに悲しみ仏僧を招集「齊(法要)」を執り行ったと。
更に、惠慈は厩戸大王(皇子)の偉功を讃えると共に
不可思議にも「我以 来年二月五日 必死因」と。
622年「上宮太子」の命日に亡くなり、
西方淨土で「上宮」にお逢いになったとされています。 続く。

Sakura

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2023年3月11日 (土)

菟道貝蛸皇女 飯蛸の桜煮 845

先週、厩戸大王(皇子)の父母・妻子を紹介しました。
この情報は「聖徳太子伝暦」に依っています。
当然と云えば当然?、正史「日本書紀」には全く記述されていません。
それよりも、3名以外の奥様の存在が記載されているのです。

「五年(576年)春三月己卯朔戊子 有司請立皇后
 詔立豊御食炊屋姫尊為皇后 是生二男五女
 其一曰菟道貝鮹(=蛸)皇女〈更名菟道磯津貝皇女也〉
 是嫁於東宮聖徳(⇒厩戸大王)」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 敏達帝 P7 6行~)
*聖徳(しょうとく)
 仏語。仏にそなわる勝れた徳。ひじりの徳。
*聖徳(せいとく)
 聖人の、世のすみずみにまで及ぶすぐれた智徳。高徳。
 また特に、天子の徳。
(日本国語大辞典 小学館)
この「東宮聖徳」は日本書紀に於いて厩戸大王(皇子)の初出に。
因みに「東宮(トウグウ・みこのみや)」も初見です。

敏達帝(538?~585在572~585)は576年、
「豊御食炊屋姫尊→後の推古帝(554~628)」を皇后とした。
彼女は「二男五女」をもうけ、
長女は「菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)」。
「菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)」は
「東宮聖徳(=厩戸大王)」のお「嫁」さんに。

貝蛸皇女とは、いやはや、何とも、奇妙で艶っぽいお名前では?
*貝蛸・・・いいだこ(飯蛸)」の異名。
*飯蛸
マダコ科のタコ。北海道南部以南の日本沿岸に分布する。
腕の長さを加えて体長約二五センチメートル。
春、卵をもっているものを煮ると、
胴に飯粒が詰まっているようにみえるのでこの名がある。
肉、卵ともに美味で生食のほか、佃煮、干し蛸にする。
いしだこ。かいだこ。《季・春》(日本国語大辞典 小学館)
そろそろ、染井吉野桜の季節、「飯蛸の桜煮」が美味しい・・・・・。

それはさて置き、彼女の件は以後一切「日本書紀」は触れていません。
彼女と厩戸大王とにはお子さんができなかったのでしょう?
しかしながら、何故、彼女のみ登場しているのか疑問が解けません。
それから、彼女の名誉の為に。

「七年(578年)春三月戊辰朔壬申 以菟道皇女侍伊勢祠
 即姧(=奸)池辺皇子 事顕而解」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 敏達帝 P8 3行~)
「菟道皇女」は「伊勢祠(斎宮)」に就任するも
池辺皇子に「姧(かだ)」まされ解任される。
池辺皇子は後の厩戸大王(皇子)の父、「用明帝」。
五年(576年)、七年(578年)から菟道貝蛸皇女⇔菟道皇女は
論理的に同一人物にはなりません。 続く。

Sakura

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2023年3月 4日 (土)

厩戸大王 妻3名子女14名 844

今回は厩戸大王(皇子)の父母・妻子について整理してみます。
ここからの情報は以前、「厩戸皇子 甲午年(574年)生誕」
お世話になった「上宮聖徳法王帝説」(国立国会図書館)に依ります。

用明帝(?~587在585~587)←父
穴穂部間人皇女(?~621/12/21)←母
厩戸大王(574~622/2/22)←本人
妻子
膳部菩岐岐美郎女(?~622/2/21)
 舂米女王(?~643/11/11)(つきしねのみこ)
 長谷王(?~628)
 久波太女王
 波止利女王
 三枝王
 伊止志古王
 麻呂古王
 馬屋古女王
刀自古郎女(蘇我馬子の娘 とじこのいらつめ)
 山代(背)大兄王(?~643/11/11 舂米女王娶る)
 財王
 日置王
 片岡女王
位奈部橘王(=橘大郎女 天寿国曼荼羅繡帳を作成)
 白髪部王(?~643/11/11)
 手島女王
都合、奥様3名子女14名(男子8名女子6名)になります。

尚、厩戸大王は598年(推古6年)春三月桜の季節、25歳で
膳部菩岐岐美郎女(かしは〈わ〉でのほききみのいらつめ)
=膳大娘(かしは〈わ〉でのおおいらつめ)を妃としています。
「六年戊午 春三月 挙膳大娘為妃」
国立国会図書館 電子図書館 聖徳太子伝暦 P30 15行目)
「聖徳太子伝暦」は厩戸大王の伝記で570~645年に渡り編年体にて
記述されています。著書は不明、成立年も不詳です。
「聖徳太子平氏伝」とも云われています。 続く。

Sakura

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