辛酉年春正月庚辰朔 神武帝即位 842
更なる戯れ言の続きでありんす。
因みに、古事記では「高天原」は一途最初に登場します。
「天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神
(訓高下天 云阿麻 下效此)
次高御産巣日神 次神産巣日神 此三柱神者 並独神成坐而
隱身也」
(国立国会図書館 電子図書館 古事記 上巻 P6 9行~)
又、今日は奇しくも「建国記念の日」です。
いにしえに神武帝が即位された「日」とされています。
「日本書紀 巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇」の
「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳爲天皇元年」
(辛酉年春正月庚辰朔 ⇒ 神武帝元年正月一日 ⇒B.C.600/02/11)
こちらの諸事情は
「B.C.660年神武帝 橿原宮で即位」
「神武元年~推古八年=1260年」 でご確認下さい。
その神武帝が登場する日本書紀架空神代の記述、
天照大神~神武帝の系譜は下記になっています。
天照大神⇒天忍穂耳尊⇒瓊瓊杵尊(天孫降臨)⇒
彦火火出見尊(山幸彦)⇒鸕鶿草葺不合尊⇒彦火火出見尊(神武帝)
天照大神のお孫さんは「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」、
鸕野讃良皇女さんのお孫さんは「文武帝」。
持統帝のご子息「草壁皇子(662~689)」が「帝位」に
即くことなく亡くなった為、
何としてもお孫さんの「文武帝」を即位させたかったのです。
従って、神代の物語は天孫降臨(高天原から天降り)に。
女帝、天照大神の孫、「瓊瓊杵尊」に設定しなければ
「文武帝」との辻褄が合わなくなってしまうのです。
もう一カ所、作為的な記載が確認されます。
天照大神の五世孫は「神武帝」とされています。
「王朝交替説」の根拠とされている異常と思われる
日本書紀「倭国の帝位変遷」、
「河内王朝」の最後、清寧帝→「播磨王朝」の顕宗帝、
(顕宗帝は履中帝の孫と)
「播磨王朝」の最後、武烈帝→「近江・越前王朝」の継体帝。
(継体帝は応神帝の5世孫と)
「日本書紀 継体帝 記述抜粋」
「釈日本紀一云に応神帝5世孫詳細」
「応神帝5世孫・垂仁帝7世孫」 をご確認下さい。
天照大神の五世孫「神武帝」って
誉田別尊(応神帝)の五世孫は「継体帝」としたいが為の作り話・・・・・。
続く。

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