東天皇V.S.西皇帝(もろこしのきみ) 839
釈迦・孔子の教えを思いっきり学び実践したと思われる
厩戸大王(皇子)さん。
720年に完成した日本書紀に依ると、大王47歳(620年)を迎え、
70歳頃の大伯父、蘇我馬子(551頃~626)と倭国内政問題に着手。
「すへ(め)らみことのふみ」(皇尊〈→ 帝 → 天皇〉記)
「くにつふみ」(國〈国〉記)
「おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりや
そとものをあわせておおみたからどものもとつふみ」
(臣連伴造国造百八十部并公民等本記)
(こちらは推古二十八年天皇記及國記でご確認下さい。)
を整理・整頓されたとされています。
この日本書紀で編纂者らは
倭語の「すへ(め)らみこと」に漢語の「天皇」を配当・表記したのです。
「(608年)秋八月辛丑朔癸卯 唐客入京 中略
大唐之國信物置於庭中 時使主裴世清親持書
両度再拝言上使旨而立 其書曰 皇帝問倭皇」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P15 5行~)
来倭の際、楊広(煬帝)からの親書を裴世清が読み上げる描写。
その親書に
「皇帝(きみ)(楊広=煬帝)問倭皇(やまとのすめらみこと」
と記述されていた事になっています。
(尚、ルビは写本から、又、日本書紀ですから当然、倭皇は推古帝。)
一方、裴世清の帰国に当たり述べた言葉として
「爰天皇聘唐帝 其辞曰
東天皇敬白西皇帝 使人鴻臚寺掌客裴世清等至」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P16 2行~)
と記載され、写本へのルビふりは
「唐帝(きみ)」「東(やまとの)天皇敬白西皇帝(もろこしのきみ)」と。
漢語表記を倭語に読み下すと
東天皇(やまとのすめらみこと)V.S.唐帝・西皇帝(もろこしのきみ)に。
(608年裴世清来倭・帰国は「遣倭使 日本書紀と隋書の違い」で)
以上から日本書紀をいくら慮っても
東天皇→豊御食炊屋姫(額田部皇女)《後の推古天皇》は後付けに。
唐帝・西皇帝(もろこしのきみ)→楊広《後の煬帝》から
この「きみ」から、来倭使(裴世清)と謁見したのは
厩戸大王(おほきみ)→厩戸皇子《後の聖徳太子》になるのでは。
唐帝・西皇帝 ⇔ 厩戸大王に。 続く。

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