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2023年1月28日 (土)

日本書紀 天皇表記 戯れ言 840

ここからは戯れ言でありんす。

先週紹介しました日本書紀(720年完成)で
「裴世清帰国」の際、楊広(=煬帝)への
「返礼ご挨拶お言葉」で
豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が「東天皇」と措定記載された件です。
日本書紀の歴代天皇記述でここに初めて「女帝」が登場します。
巻第九単独一巻で
「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」について
日本書紀は詳細に?叙述していますがあくまでも「皇后」表記です。
「天皇(女帝)」とは記されていません。
(彼女は「卑弥呼」さんの伝承物語入れ込み創作です。)
厩戸大王(うまやどのおほきみ)が存在したにも関わらず
なぜ、豊御食炊屋姫が「天皇(女帝)」に祭り上げられたのか?
それは「日本書紀」制作者(プロデューサー)のご・事・情なのです。

皆さんお気づきと思われますが
「日本書紀」の実質制作者はお二人で
一人目は
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
(後の天智天皇〈626~672〉の二女、
幼名、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、
高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
(後の持統天皇〈645~703〉)さん。
二人目は
中臣→藤原鎌足(614~669)の二男、
藤原不比等(659~720)さん。

お二人共にご自分達の「血筋(=血統)」を後々の世代に脈々と
繋げたい希求の為せる技、顛末なのです。
鸕野讃良皇女・お婆さんが「天皇(女帝)」になり可愛いお孫さんを
何が何でも「倭国の為政者のトップ」=「大王」⇒「天皇」に
したかったのです。
「女帝(天皇)」の先例として豊御食炊屋姫さんを起用することに
創作してしまったのです。
その一連の流れを後ろからサポートしたのが藤原不比等さんに。
 続く。

Ume77

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2023年1月21日 (土)

東天皇V.S.西皇帝(もろこしのきみ) 839

釈迦・孔子の教えを思いっきり学び実践したと思われる
厩戸大王(皇子)さん。
720年に完成した日本書紀に依ると、大王47歳(620年)を迎え、
70歳頃の大伯父、蘇我馬子(551頃~626)と倭国内政問題に着手。

「すへ(め)らみことのふみ」(皇尊〈→ 帝 → 天皇〉記)
「くにつふみ」(國〈国〉記)
「おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりや
 そとものをあわせておおみたからどものもとつふみ」
 (臣連伴造国造百八十部并公民等本記)
(こちらは推古二十八年天皇記及國記でご確認下さい。)

を整理・整頓されたとされています。
この日本書紀で編纂者らは
倭語の「すへ(め)らみこと」に漢語の「天皇」を配当・表記したのです。

「(608年)秋八月辛丑朔癸卯 唐客入京 中略 
 大唐之國信物置於庭中 時使主裴世清親持書
 両度再拝言上使旨而立 其書曰 皇帝問倭皇」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P15 5行~)

来倭の際、楊広(煬帝)からの親書を裴世清が読み上げる描写。
その親書に
「皇帝(きみ)(楊広=煬帝)問倭皇(やまとのすめらみこと」
と記述されていた事になっています。
(尚、ルビは写本から、又、日本書紀ですから当然、倭皇は推古帝。)

一方、裴世清の帰国に当たり述べた言葉として
「爰天皇聘唐帝 其辞曰
 東天皇敬白西皇帝 使人鴻臚寺掌客裴世清等至」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P16 2行~)

と記載され、写本へのルビふりは
「唐帝(きみ)」「東(やまとの)天皇敬白西皇帝(もろこしのきみ)」と。
漢語表記を倭語に読み下すと
東天皇(やまとのすめらみこと)V.S.唐帝・西皇帝(もろこしのきみ)に。

(608年裴世清来倭・帰国は「遣倭使 日本書紀と隋書の違い」で)

以上から日本書紀をいくら慮っても
東天皇→豊御食炊屋姫(額田部皇女)《後の推古天皇》は後付けに。
唐帝・西皇帝(もろこしのきみ)→楊広《後の煬帝》から
この「きみ」から、来倭使(裴世清)と謁見したのは
厩戸大王(おほきみ)→厩戸皇子《後の聖徳太子》になるのでは。
唐帝・西皇帝 ⇔ 厩戸大王に。 続く。

Ume77

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2023年1月14日 (土)

厩戸大王(皇子)法華義疏 838

新型コロナ禍に依る「行動制限」が解除・緩和され、3年振りの
国内・国外大移動と思いきや、意外な赴き感が漂ったお正月?
「明けましておめでとうございます。
 今年も宜しくお願い申し上げます。」

それでは、「厩戸大王(皇子)」の続きから。
彼につきましては昨年

「日本書紀の『大王(おほきみ)』表記」
「獲加多支鹵大王→雄略帝」
「厩戸皇子→豊聡耳法大王・法王大王」
「厩戸皇子 甲午年(574年)生誕」
「豊聡耳法大王は確固たる倭王」
「593年4月弱冠二十歳 厩戸大王」
「上宮・廐戸・豊聡耳・太子に」
「日没処天子様 お元気でした?」
「厩戸大王と裴世清 相見える」 
 等々にてお話ししました。
厩戸大王が思いっきり背伸びして張り合った、
お隣、隋の楊広(煬帝)さんは618年に不慮の死を遂げられました。
この年、大王は45歳。
(通期は「楊広(煬帝)と厩戸大王(皇子)」でご確認を)
彼は隋王朝への遣使派遣を止めた後、
「法華経」の注釈書(「法華義疏」)を作成したとされています(615年)
*法華経
「妙法蓮華経」の略称。大乗仏教の重要な経典の一つ。
漢訳に竺法護訳一〇巻(265‐316年)、鳩摩羅什訳八巻(406年)、
闍那崛多・達磨笈多訳八巻(601年)の三種が現存するが、
羅什訳が最も有名で、通常は同訳をさす。
詩や譬喩・象徴を主とした文学的な表現で、
一乗の立場を明らかにし、永遠の仏を説く。
(日本国語大辞典 小学館)
その義疏(ぎしょ=注釈書)に

「疏云法華義疏第一 此是大委國上宮王和集 非海彼本」
国立国会図書館 電子図書館 法華義疏第一巻 3行目)
写本されたお方がわざわざ此は海外本ではなく、
「大委國=大倭国」の「上宮王=厩戸大王」が集め記したものと
記述されています。
又、遡ること606年、
厩戸大王(33歳)は「勝鬘経・法華経」を講じています。

「(推古14年)秋七月 天皇請皇太子令講勝鬘経 三日 説竟之
 是歳 皇太子亦講法華経於岡本宮 天皇大喜之」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 4行目)
これにて、大王が仏教に勤しんでおられた事が窺えます。 続く。

Ume77

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