日本書紀 天皇表記 戯れ言 840
ここからは戯れ言でありんす。
先週紹介しました日本書紀(720年完成)で
「裴世清帰国」の際、楊広(=煬帝)への
「返礼ご挨拶お言葉」で
豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が「東天皇」と措定記載された件です。
日本書紀の歴代天皇記述でここに初めて「女帝」が登場します。
巻第九単独一巻で
「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」について
日本書紀は詳細に?叙述していますがあくまでも「皇后」表記です。
「天皇(女帝)」とは記されていません。
(彼女は「卑弥呼」さんの伝承物語入れ込み創作です。)
厩戸大王(うまやどのおほきみ)が存在したにも関わらず
なぜ、豊御食炊屋姫が「天皇(女帝)」に祭り上げられたのか?
それは「日本書紀」制作者(プロデューサー)のご・事・情なのです。
皆さんお気づきと思われますが
「日本書紀」の実質制作者はお二人で
一人目は
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
(後の天智天皇〈626~672〉の二女、
幼名、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、
高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
(後の持統天皇〈645~703〉)さん。
二人目は
中臣→藤原鎌足(614~669)の二男、
藤原不比等(659~720)さん。
お二人共にご自分達の「血筋(=血統)」を後々の世代に脈々と
繋げたい希求の為せる技、顛末なのです。
鸕野讃良皇女・お婆さんが「天皇(女帝)」になり可愛いお孫さんを
何が何でも「倭国の為政者のトップ」=「大王」⇒「天皇」に
したかったのです。
「女帝(天皇)」の先例として豊御食炊屋姫さんを起用することに
創作してしまったのです。
その一連の流れを後ろからサポートしたのが藤原不比等さんに。
続く。
