高句麗 朝貢せず三度征伐不成功 835
煬帝は高句麗の降伏申し入れの報を受け、この状況を導いた将軍、
来護児に帰還するよう伝えます。
しかし、来護児は今回既に3度目の遠征となり、この期を逃して
高句麗王、高元を捕縛できる機会はないと考え、
平壌城進軍を煬帝へ請願します。
但し、なぜか煬帝は認めることはしませんでした。
(なぜの正解は隋書 執筆者、魏徴らが史実を知っていたから。)
それでも来護児は現場指揮官の判断で平壌城攻略へ道を選びます。
ところが、彼の参謀(崔君粛)はこの判断を否定、強く諫言します。
そして、最終的に来護児は煬帝の命に従い踵を返す事になるのです。
(先週と上記について「隋書」で情報が別々記述されています。
巻4 煬帝下 巻64 列伝 来護児 巻70 列伝 楊玄感 斛斯政
巻81 列伝 東夷 高麗)
巻4 煬帝下には
614年10月 煬帝は「東都(=洛陽)」に至り、戦勝を祝い「大赦」を。
「十一年(615年)春正月甲午朔 大宴百僚
突厥 新羅 靺鞨 畢大辞 訶咄 伝越 烏那曷 波臘 吐火羅 俱慮建
忽論 靺鞨 訶多 沛汗 亀茲 疎勒 于闐 安国 曹国 何国 穆国
畢 衣密 失范延 伽折 契丹等国 並遣使朝貢」
(国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻四 煬帝下 17行~)
615年01月 隋王朝への朝貢国が記載されています。
前年7月 隋に降伏した「高麗(=高句麗)」の遣使がなんたることか
朝貢リストに登場していません。
この事実から、高句麗は隋王朝、煬帝をまんまと欺したことに。
小国の高句麗が大国の隋に戦闘では敗北したものの
「口八丁手八丁」で中華大国を翻弄、東夷小国は生き延びたのです。
(高句麗はこの後も全く朝貢に訪れていません。)
この体たらくに煬帝は激怒、四度目の高句麗遠征を企図します。
しかし、3年連続の徴兵で疲弊、思うように兵は集まりません。
又、二度目の際、身内からの反乱分子、楊玄感を直ちに鎮圧しますが
この「楊玄感の乱」を契機に各地で煬帝に叛旗を翻す動きが生じます。
更に、隋王朝の内部分裂・国力低下から北狄の突厥も不穏な動きを。
このような状況に煬帝(569~618)は嫌気がさしたのか?
616年07月 風光明媚な江都宮(現在の江蘇省揚州市)に移動します。
当然、「大運河」を北から南に下るルートで。 続く。

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