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2022年12月10日 (土)

江都(揚州) 美女の二十四橋 836

東都洛陽から江都揚州まで「龍舟(豪華クルーズ舟)」で大運河を下る
舟旅に煬帝は内乱、及び、風雲急を告げる突厥懸念を忘れ?上機嫌。
江都宮の地でも日々、運河周遊でご満悦。
舟内で美しい女性が奏で舞う豪華絢爛ショー。
心を通わせる寵姫を数多侍らせ、15~20年ものの老酒を口に。
更に圧巻は「美女の二十四橋」と云われる演出装置。
(S状アーチ橋で24本の防護柵柱。)
この24の柱毎に見目麗しい女性楽器奏者を配置、橋を通過する際に
夢心地の音(ね)を龍舟に届けるのです。
(二十四節気に因んで春夏秋冬一年中って事?)
きっと以て、煬帝は甘美な世界に漂い浸っていたと思われます。
但し、そんな楽しい日々はそう長く続かないのが世の常。翌年、
617年3月 馬邑郡(現在の山西省朔州市)太守の王仁恭を殺害した
劉武周(573~621)は勝手に「帝位」に即く暴挙。
これに伴う、突厥軍の侵攻防御ができなかった
翌年「唐」を建国する太原(現在の山西省太原市 朔州市の南)
留守担当の
李淵(566~635在618~626)は煬帝から揚州へ出向き弁明の命が。
617年05月 李淵は煬帝の厳罰回避から息子等を伴い、
大興城(長安)目指し進軍、
617年11月 首都大興城に住まう、煬帝の孫、楊侑(605~619)を
確保、幼い楊侑を皇帝に祭り上げ、煬帝を太上皇とします。
煬帝の取り巻きは大興城(長安)奪還を促しますが
全く帰る気が無い煬帝は一向に聞き入れません。最終的に
618年04月 煬帝は宇文化及・裴虔通らに殺められてしまうのです。
618年05月 恭帝(楊侑)は李淵に皇位を禅譲(帝位簒奪成功に)。
尚、煬帝(ヨウダイ・ヨウテイ)の本姓・諱は楊広(ヨウコウ)。
「煬帝」は唐王朝を開いた李淵の「楊広」へ贈った諡(おくりな)。
楊 → 煬(火を燃やす → 悪逆・天逆民虐)との意味合いに。
又、隋書 煬帝「論」(評論)で彼の事を「淫荒無度」と記しています。
これは全く無粋でおモテにならない
執筆者の楊広さんへの単なる嫉妬に過ぎません。
厩戸大王(574~622)に対して
大きな心でお付き合い下さった楊広さん。
裴世清を通して「仏教・儒教・律令」等々ご教授下さいました。
とても感謝申し上げます。
楊(煬)帝は618年不慮の死を遂げますが
厩戸大王(皇子)はこの年45歳で健在です。
不可思議なのですが、隋書を叙述者の中で
煬帝を「明皇帝」と記述しているお方が存在します。

「我大隋之有天下 於茲三十八載
高祖文皇帝 聖略神功 載造区夏
世祖明皇帝 則天法地 混一華戎」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻59 煬帝三男 12行~)

世祖明皇帝は天に則り、法に法り、「華戎」をまとめたと。
混一華戎(=華夷)・・・煬帝の北狄・西戎、突厥との融和政策など。

更に、彼が完成させた、北京~杭州を結ぶ大運河(京杭大運河)は
次の唐王朝に感謝され、現在の共産党王朝でも「南水北調」政策で
受け継がれいます。 続く。

Tubaki6

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