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2022年12月17日 (土)

楊広(煬帝)と厩戸大王(皇子) 837

楊広(煬帝)は厩戸大王(皇子)より五歳年上です。
お二人の状況・情況を比べてみました。

年表 楊広(煬帝) 厩戸大王(皇子)
569年 01歳 生誕  
574年   01歳 生誕
587年   14歳 物部守屋討伐軍へ参加
588年 20歳 南朝陳遠征 総指揮官  
589年 21歳 陳都 建康陥落 南北統一  
593年   20歳 額田部皇女より政務全般受任
596年   23歳 伊予(=道後)温泉へ
600年   27歳 隋へ遣使派遣
603年   30歳 冠位十二階制定
604年 36歳 父崩御 皇帝に 31歳 暦日採用
605年 37歳 大運河掘削工事再開 32歳 斑鳩宮へ移住
607年   34歳 隋へ遣使派遣
608年   35歳 遣倭使 裴世清と相見える
610年 42歳 京杭大運河開通 37歳 隋へ遣使派遣
612年 44歳 1回高句麗遠征  
613年 45歳 2回高句麗遠征  
614年 46歳 3回高句麗遠征  
616年 48歳 江都宮へ移動  
618年 50歳 不慮の死 45歳 元気しています
620年   47歳 蘇我馬子と「国記」等編纂

都度、加筆します。

ところで、今年もお世話になりました。
2022年度の出稿は本日でお仕舞いです。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さい。 続く。

Tubaki6

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2022年12月10日 (土)

江都(揚州) 美女の二十四橋 836

東都洛陽から江都揚州まで「龍舟(豪華クルーズ舟)」で大運河を下る
舟旅に煬帝は内乱、及び、風雲急を告げる突厥懸念を忘れ?上機嫌。
江都宮の地でも日々、運河周遊でご満悦。
舟内で美しい女性が奏で舞う豪華絢爛ショー。
心を通わせる寵姫を数多侍らせ、15~20年ものの老酒を口に。
更に圧巻は「美女の二十四橋」と云われる演出装置。
(S状アーチ橋で24本の防護柵柱。)
この24の柱毎に見目麗しい女性楽器奏者を配置、橋を通過する際に
夢心地の音(ね)を龍舟に届けるのです。
(二十四節気に因んで春夏秋冬一年中って事?)
きっと以て、煬帝は甘美な世界に漂い浸っていたと思われます。
但し、そんな楽しい日々はそう長く続かないのが世の常。翌年、
617年3月 馬邑郡(現在の山西省朔州市)太守の王仁恭を殺害した
劉武周(573~621)は勝手に「帝位」に即く暴挙。
これに伴う、突厥軍の侵攻防御ができなかった
翌年「唐」を建国する太原(現在の山西省太原市 朔州市の南)
留守担当の
李淵(566~635在618~626)は煬帝から揚州へ出向き弁明の命が。
617年05月 李淵は煬帝の厳罰回避から息子等を伴い、
大興城(長安)目指し進軍、
617年11月 首都大興城に住まう、煬帝の孫、楊侑(605~619)を
確保、幼い楊侑を皇帝に祭り上げ、煬帝を太上皇とします。
煬帝の取り巻きは大興城(長安)奪還を促しますが
全く帰る気が無い煬帝は一向に聞き入れません。最終的に
618年04月 煬帝は宇文化及・裴虔通らに殺められてしまうのです。
618年05月 恭帝(楊侑)は李淵に皇位を禅譲(帝位簒奪成功に)。
尚、煬帝(ヨウダイ・ヨウテイ)の本姓・諱は楊広(ヨウコウ)。
「煬帝」は唐王朝を開いた李淵の「楊広」へ贈った諡(おくりな)。
楊 → 煬(火を燃やす → 悪逆・天逆民虐)との意味合いに。
又、隋書 煬帝「論」(評論)で彼の事を「淫荒無度」と記しています。
これは全く無粋でおモテにならない
執筆者の楊広さんへの単なる嫉妬に過ぎません。
厩戸大王(574~622)に対して
大きな心でお付き合い下さった楊広さん。
裴世清を通して「仏教・儒教・律令」等々ご教授下さいました。
とても感謝申し上げます。
楊(煬)帝は618年不慮の死を遂げますが
厩戸大王(皇子)はこの年45歳で健在です。
不可思議なのですが、隋書を叙述者の中で
煬帝を「明皇帝」と記述しているお方が存在します。

「我大隋之有天下 於茲三十八載
高祖文皇帝 聖略神功 載造区夏
世祖明皇帝 則天法地 混一華戎」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻59 煬帝三男 12行~)

世祖明皇帝は天に則り、法に法り、「華戎」をまとめたと。
混一華戎(=華夷)・・・煬帝の北狄・西戎、突厥との融和政策など。

更に、彼が完成させた、北京~杭州を結ぶ大運河(京杭大運河)は
次の唐王朝に感謝され、現在の共産党王朝でも「南水北調」政策で
受け継がれいます。 続く。

Tubaki6

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2022年12月 3日 (土)

高句麗 朝貢せず三度征伐不成功 835

煬帝は高句麗の降伏申し入れの報を受け、この状況を導いた将軍、
来護児に帰還するよう伝えます。
しかし、来護児は今回既に3度目の遠征となり、この期を逃して
高句麗王、高元を捕縛できる機会はないと考え、
平壌城進軍を煬帝へ請願します。
但し、なぜか煬帝は認めることはしませんでした。
(なぜの正解は隋書 執筆者、魏徴らが史実を知っていたから。)
それでも来護児は現場指揮官の判断で平壌城攻略へ道を選びます。
ところが、彼の参謀(崔君粛)はこの判断を否定、強く諫言します。
そして、最終的に来護児は煬帝の命に従い踵を返す事になるのです。
(先週と上記について「隋書」で情報が別々記述されています。
 巻4 煬帝下 巻64 列伝 来護児 巻70 列伝 楊玄感 斛斯政
 巻81 列伝 東夷 高麗)
巻4 煬帝下には
614年10月 煬帝は「東都(=洛陽)」に至り、戦勝を祝い「大赦」を。

「十一年(615年)春正月甲午朔 大宴百僚
 突厥 新羅 靺鞨 畢大辞 訶咄 伝越 烏那曷 波臘 吐火羅 俱慮建
 忽論 靺鞨 訶多 沛汗 亀茲 疎勒 于闐 安国 曹国 何国 穆国
 畢 衣密 失范延 伽折 契丹等国 並遣使朝貢」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻四 煬帝下 17行~)

615年01月 隋王朝への朝貢国が記載されています。
前年7月 隋に降伏した「高麗(=高句麗)」の遣使がなんたることか
朝貢リストに登場していません。
この事実から、高句麗は隋王朝、煬帝をまんまと欺したことに。
小国の高句麗が大国の隋に戦闘では敗北したものの
「口八丁手八丁」で中華大国を翻弄、東夷小国は生き延びたのです。
(高句麗はこの後も全く朝貢に訪れていません。)
この体たらくに煬帝は激怒、四度目の高句麗遠征を企図します。
しかし、3年連続の徴兵で疲弊、思うように兵は集まりません。
又、二度目の際、身内からの反乱分子、楊玄感を直ちに鎮圧しますが
この「楊玄感の乱」を契機に各地で煬帝に叛旗を翻す動きが生じます。
更に、隋王朝の内部分裂・国力低下から北狄の突厥も不穏な動きを。
このような状況に煬帝(569~618)は嫌気がさしたのか?
616年07月 風光明媚な江都宮(現在の江蘇省揚州市)に移動します。
当然、「大運河」を北から南に下るルートで。 続く。

Tubaki6

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