598年楊堅 高句麗征伐失敗 832
598年、日没処天子様(隋王朝初代皇帝楊堅)が高句麗へ征伐侵攻
しますが、悪天候・兵糧不足等に見舞われ撤退する羽目に陥ります。
「明年(598年) 元(=高句麗王)率靺鞨之衆万余騎寇遼西
営州総管韋沖撃走之 高祖(=楊堅)聞而大怒 命漢王諒為元帥
総水陸討之 下詔黜其爵位 時餽運不継 六軍乏食 師出臨渝関
復遇疾疫 王師不振 及次遼水(=河) 元亦惶懼 遣使謝罪 上表称
遼東糞土臣元云云 上於是罷兵 待之如初 元亦歳遣朝貢」
(国立国会図書館 電子図書館 隋書 列伝第四十六 高麗 6行~)
*靺鞨(マッカツ)
中国、六世紀半ば勿吉(モッキツ)滅亡後、その支配下にあり
東北地方に居住していたツングース系諸族に対する中国側の呼称。
その一部は七世紀末に渤海を建国した。
*ツングース
(露 Tungus) 中国東北部、シベリア東部に分布する民族。
主として狩猟遊牧民。粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨・渤海・女真などが
これに属する。シャーマニズムの祭祀形態が顕著で、
古代日本人との関連が深いといわれる。
(日本国語大辞典 小学館)
楊堅の高句麗侵攻は「元(高句麗王)」が「靺鞨の衆万余騎」を率いて
「遼西」地域を脅かしたからだったのです。
「営州総管韋沖」が高句麗・靺鞨軍を撃退、
この経緯が楊堅の耳に届くと
「大怒(=激怒)」し、陸・水軍を高句麗攻撃へ派遣。
但し、陸軍は兵糧運搬に不備を来たし兵は飢え、更に疫病まで発生、
一方、水軍は大風に遭遇、軍船を失う自体で隋の陸・水軍は退却へ。
しかし、高句麗王はこれらに「惶懼(=驚愕)」、使者を派遣、「謝罪」。
楊堅は許す事になります。
604年楊堅が崩御、煬帝が皇帝に
父の高句麗征伐失敗の因、「兵糧不足」を解消する為、煬帝は早速
「京杭大運河」の早期開通を企図したのです。 続く。

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