隋王朝への高句麗朝貢模様 833
「京杭大運河開通」目的の一つ、高句麗遠征について。
(高句麗の隋書の表記は「高麗」になってます。)
581年「北周」から禅譲され楊堅(日没処天子)は「隋」を建国。
高句麗王はこの年、朝貢、「遼東郡公」を授けられています。
下記は隋書に記載されている、高句麗・百済・新羅・倭の朝貢記録。
(東夷以外は帝紀から)
581年10月 百済王扶余昌遣使来賀授昌上開府儀同三司帯方郡公
581年12月 高麗王高陽遣使朝貢授陽大将軍遼東郡公
582年01月 高麗百済並遣使貢方物
582年11月 高麗遣使獻方物
583年01月 高麗遣使来朝
583年04月 高麗遣使来朝
583年05月 高麗遣使来朝
584年04月 宴突厥高麗吐谷渾使者於大興殿
590年06月 高麗遼東郡公高陽卒
591年01月 高麗遣使朝貢
591年05月 高麗遣使貢方物
594年00月 遣使貢方物 略 楽浪郡公新羅王(東夷新羅)
597年05月 高麗遣使貢方物
598年02月 水陸三十万伐高麗
598年06月 下詔黜高麗王高元官爵
600年01月 突厥高麗契丹並遣使貢方物
600年00月 倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩鶏弥遣使詣闕(東夷倭)
607年00月 璋遣使者燕文進朝貢(東夷百済)
607年00月 其王多利思比孤遣使朝貢(東夷倭)
608年03月 百済倭赤土迦羅舍国並遣使貢方物
610年01月 倭国遣使貢方物
611年02月 百済遣使朝貢
614年00月 復遣使朝貢(東夷百済)
*突厥(トッケツ)
*吐谷渾(トヨクコン)
中国、五胡十六国時代から唐代まで、青海地方にあった遊牧国家。
鮮卑系の王慕容が羌族(=チベット人)らを支配。
中継貿易、南朝の保護などで栄えたが、635年唐に服属し、
663年吐蕃に滅ぼされた。
*吐蕃(トバン)
七世紀初頭にソンツェン=ガンポがチベット諸族を統一して確立し
た王朝に対する中国側の呼称。王都はラサ。
はじめ唐と結んで勢威をふるい、東トルキスタンの覇権を
握ったが、のち対立抗争を続け、九世紀中頃、唐に帰服した。
中国やインドの文化を受容して、文字を創定し仏教を移入する
など、チベットの歴史に大きな足跡を残した。
(日本国語大辞典 小学館)
高句麗は581年1回、582年2回、583年3回、584年1回、隋へ赴くも
590年高陽王が亡くなる間、朝貢は途絶えます。
但し、翌591年復活2回、暫く時を置き、597年1回。
そして、598年高句麗は遼西地域を侵略、隋は「水陸三十万伐高麗」。
30万擁する水陸軍は高麗を討てず撤退済ますが、
元(高句麗王)は詫びを入れ許され、600年朝貢を再開します。
ここまで前回紹介しました。
604年楊堅(日没処天子)が病で崩御、息子の煬帝が皇帝即位。
605年「京杭大運河」掘削工事スタートし、倭国の小野妹子が訪れた
610年に「京杭大運河開通」へ。
この間、高句麗からの朝貢は皆無なのです。
それよりも高句麗の不穏な動きが叙述されているのです。 続く。

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