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2022年11月26日 (土)

煬帝 高句麗征伐三度出動 834

先週紹介しました高句麗の不穏な動き。

「(607年)八月壬午 車駕発榆林 乙酉 啓民飾廬清道 以候乗輿
 帝幸其帳 啓民奉觴上寿 宴賜極厚
 上謂高麗使者曰
 帰語爾王 当早来朝見 不然者 吾与啓民巡彼土矣」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三 煬帝上 1行~)
*榆林・・・この時の東突厥が支配 現在の陝西省榆林市
*啓民(在587~609)・・・東突厥の可汗(カガン→ハーン=君主 )

煬帝が東突厥の啓民可汗を訪れた際、即位後、
一度も朝貢していない高句麗の使者が東突厥にいた事です。
これって、明らかに高句麗は隋を無視していたのです。

(北)京杭(州)大運河開通の翌年、
611年2月煬帝は「江都」の楊子津を臨んだ釣台へ上がり
百僚らと大宴会を催し、「江都」より「龍舟」にて運河を北上、
「通済渠(黄河~淮水)」を経て、「涿郡(北京)」に入ったのです。
この涿郡で「高句麗討伐」の命を発し、兵・兵糧・武具等を調達。翌、
612年春正月、100万を超す(1,133,800)兵を高句麗へ向けて進軍。
高句麗将軍の巧みで狡猾な戦術により大敗を来たし撤退。
(宇文述〈隋〉V.S. 乙支文徳〈高句麗〉)
613年春正月、再び兵を徴発、高句麗へ侵攻するも
「楊玄感反於黎陽(6月)」(隋将軍、楊玄感が「黎陽」にて反乱)
*黎陽(レイヨウ)・・・現在の河南省鶴壁市
楊玄感(?~613)が煬帝に叛旗を翻し挙兵、隋軍は退却する羽目に。
614年2月、煬帝は百僚を集め高句麗討伐について尋ねるも
百僚達の皆さんはだんまりで埒あかず。再々度、兵を徴集。
3月「涿郡(北京)」に向かうも、途中逃亡兵少なからず。
4月煬帝は「北平(現在の河北省保定市)」に至る。
7月煬帝は「懐遠鎮(場所不明)」に着く。
一方、海から遼東半島に上陸した隋将軍「来護児(?~618)」が
「卑奢城(現在の遼寧省鞍山市海城市)」
(海城市〈県〉は「張作霖〈1875~1928〉の生地」)
で高句麗軍を撃破、高句麗首都、平壤へ向け、兵を赴かせます。
この状況に高句麗王、「高元」は恐れおののき、
「遼東城(現在の遼寧省遼陽市)」へ降伏を伝える使者を送った。
その際、遣使は隋亡命者「斛斯政(?~614)」を伴った。
(「楊玄感」と「斛斯政」は仲好しさん同士。
 楊玄感反乱後、斛斯政は煬帝の追求を逃れる為、高句麗に亡命)
この報告を受けた煬帝は大悦び。「来護児」に召還命令を。 続く。

Tubaki6

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2022年11月19日 (土)

隋王朝への高句麗朝貢模様 833

「京杭大運河開通」目的の一つ、高句麗遠征について。
(高句麗の隋書の表記は「高麗」になってます。)
581年「北周」から禅譲され楊堅(日没処天子)は「隋」を建国。
高句麗王はこの年、朝貢、「遼東郡公」を授けられています。
下記は隋書に記載されている、高句麗・百済・新羅・倭の朝貢記録。
(東夷以外は帝紀から)

581年10月 百済王扶余昌遣使来賀授昌上開府儀同三司帯方郡公
581年12月 高麗王高陽遣使朝貢授陽大将軍遼東郡公
582年01月 高麗百済並遣使貢方物
582年11月 高麗遣使獻方物
583年01月 高麗遣使来朝
583年04月 高麗遣使来朝
583年05月 高麗遣使来朝
584年04月 宴突厥高麗吐谷渾使者於大興殿
590年06月 高麗遼東郡公高陽卒
591年01月 高麗遣使朝貢
591年05月 高麗遣使貢方物
594年00月 遣使貢方物 略 楽浪郡公新羅王(東夷新羅)
597年05月 高麗遣使貢方物
598年02月 水陸三十万伐高麗
598年06月 下詔黜高麗王高元官爵
600年01月 突厥高麗契丹並遣使貢方物
600年00月 倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩鶏弥遣使詣闕(東夷倭)
607年00月 璋遣使者燕文進朝貢(東夷百済)
607年00月 其王多利思比孤遣使朝貢(東夷倭)
608年03月 百済倭赤土迦羅舍国並遣使貢方物
610年01月 倭国遣使貢方物
611年02月 百済遣使朝貢
614年00月 復遣使朝貢(東夷百済)
突厥(トッケツ)
吐谷渾(トヨクコン)
中国、五胡十六国時代から唐代まで、青海地方にあった遊牧国家。
鮮卑系の王慕容が羌族(=チベット人)らを支配。
中継貿易、南朝の保護などで栄えたが、635年唐に服属し、
663年吐蕃に滅ぼされた。
*吐蕃(トバン)
七世紀初頭にソンツェン=ガンポがチベット諸族を統一して確立し
た王朝に対する中国側の呼称。王都はラサ。
はじめ唐と結んで勢威をふるい、東トルキスタンの覇権を
握ったが、のち対立抗争を続け、九世紀中頃、唐に帰服した。
中国やインドの文化を受容して、文字を創定し仏教を移入する
など、チベットの歴史に大きな足跡を残した。
(日本国語大辞典 小学館)

高句麗は581年1回、582年2回、583年3回、584年1回、隋へ赴くも
590年高陽王が亡くなる間、朝貢は途絶えます。
但し、翌591年復活2回、暫く時を置き、597年1回。
そして、598年高句麗は遼西地域を侵略、隋は「水陸三十万伐高麗」。
30万擁する水陸軍は高麗を討てず撤退済ますが、
元(高句麗王)は詫びを入れ許され、600年朝貢を再開します。
ここまで前回紹介しました。
604年楊堅(日没処天子)が病で崩御、息子の煬帝が皇帝即位。
605年「京杭大運河」掘削工事スタートし、倭国の小野妹子が訪れた
610年に「京杭大運河開通」へ。
この間、高句麗からの朝貢は皆無なのです。
それよりも高句麗の不穏な動きが叙述されているのです。 続く。

Kiku5

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2022年11月12日 (土)

598年楊堅 高句麗征伐失敗 832

598年、日没処天子様(隋王朝初代皇帝楊堅)が高句麗へ征伐侵攻
しますが、悪天候・兵糧不足等に見舞われ撤退する羽目に陥ります。

「明年(598年) 元(=高句麗王)率靺鞨之衆万余騎寇遼西
 営州総管韋沖撃走之 高祖(=楊堅)聞而大怒 命漢王諒為元帥
 総水陸討之 下詔黜其爵位 時餽運不継 六軍乏食 師出臨渝関
 復遇疾疫 王師不振 及次遼水(=河) 元亦惶懼 遣使謝罪 上表称
 遼東糞土臣元云云 上於是罷兵 待之如初 元亦歳遣朝貢」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 列伝第四十六 高麗 6行~)
*靺鞨(マッカツ)
中国、六世紀半ば勿吉(モッキツ)滅亡後、その支配下にあり
東北地方に居住していたツングース系諸族に対する中国側の呼称。
その一部は七世紀末に渤海を建国した。
*ツングース
(露 Tungus) 中国東北部、シベリア東部に分布する民族。
主として狩猟遊牧民。粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨・渤海・女真などが
これに属する。シャーマニズムの祭祀形態が顕著で、
古代日本人との関連が深いといわれる。
(日本国語大辞典 小学館)
楊堅の高句麗侵攻は「元(高句麗王)」が「靺鞨の衆万余騎」を率いて
「遼西」地域を脅かしたからだったのです。
「営州総管韋沖」が高句麗・靺鞨軍を撃退、
この経緯が楊堅の耳に届くと
「大怒(=激怒)」し、陸・水軍を高句麗攻撃へ派遣。
但し、陸軍は兵糧運搬に不備を来たし兵は飢え、更に疫病まで発生、
一方、水軍は大風に遭遇、軍船を失う自体で隋の陸・水軍は退却へ。
しかし、高句麗王はこれらに「惶懼(=驚愕)」、使者を派遣、「謝罪」。
楊堅は許す事になります。

604年楊堅が崩御、煬帝が皇帝に
父の高句麗征伐失敗の因、「兵糧不足」を解消する為、煬帝は早速
「京杭大運河」の早期開通を企図したのです。 続く。

Kiku5

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2022年11月 5日 (土)

610年煬帝 京杭大運河完成 831

隋王朝が成し遂げた偉業の二番目は
黄河~淮水~長江を横切る「京杭大運河」の完成です。(610年)
これにより、「豊かな江南の産物」を短時間(以前に比して)で
「河北」地域、及び、「隋東都、洛陽」へ運搬が可能になりました。
「淮水~長江(587年完成)」を結ぶ運河は南朝「陳」へ急襲可能になり
「隋」は589年「陳」滅亡に追い込み大陸を久方ぶりに一元化国家に。
中国史上、「暴君?」と形容される、
隋王朝第二代皇帝「煬帝(569~618在604~618)」は運河工事を継続

「通済渠(ツウサイキョ)」(黄河~淮水)605年開通
「永済渠(エイサイキョ)」(黄河~天津)608年開通
「江南河(コウナンガ)」
(長江~杭州 現在の江蘇省鎮江市~浙江省杭州市)610年開通

を次々と開削、
総延長約2,500㎞以上に及ぶ「大運河」を作り上げたのです。
(南旺山〈山東省〉経由ルートの運河は時が下り、明、永楽帝時代。
 あくまでもこの時期は「洛陽」を起点とした大運河。)

「大業元年(605年)三月 略 発河南諸郡男女百余万 開通済渠
 自西苑引穀 洛水達于河 自板渚引河通于淮
 庚申 遣黄門侍郎王弘 上儀同於士澄往江南採木 造龍舟 略
 八月壬寅 上御龍舟 幸江都 略
 四年(608年)春正月乙巳 詔発河北諸郡男女百余万開永済渠
 引沁水南達于河 北通涿郡 略
 六年(610年)春正月 己丑 倭国遣使貢方物
 三月癸亥 幸江都宮 略
 (611年)二月己未 上升釣台 臨揚子津 大宴百僚 頒賜各有差
 庚申 百済遣使朝貢
 乙亥 上自江都御龍舟入通済渠 遂幸于涿郡」
*龍舟(リョウシュウ)・・・この時代の豪華クルーズ船
*江都・・・現在の江蘇省揚州市
*涿郡(タクグン)・・・現在の北京市
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三・四 煬帝上・下 12行~)

この大運河の開通により江南地域で生産される穀物を洛陽に搬送
地下掘りした「穴倉庫」に貯蔵した為、都の食糧事情は良好に。
又、煬帝さんは「江都」へのクルーズがお好きだったらしく
「龍舟」で度々訪れています。(揚州は運河と長江の交差点)
(龍舟豪華室内は老酒と寵姫で溢れていたとか?)
但し、大運河建造工事に駆り出された「河南・河北男女百余万」の
皆さんは短期間での掘削工事ですので多大な労苦を味わう事に。
この顛末が「煬帝→暴君」とする一つの理由にされています。 続く。

Kiku5

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