煬帝 高句麗征伐三度出動 834
先週紹介しました高句麗の不穏な動き。
「(607年)八月壬午 車駕発榆林 乙酉 啓民飾廬清道 以候乗輿
帝幸其帳 啓民奉觴上寿 宴賜極厚
上謂高麗使者曰
帰語爾王 当早来朝見 不然者 吾与啓民巡彼土矣」
(国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三 煬帝上 1行~)
*榆林・・・この時の東突厥が支配 現在の陝西省榆林市
*啓民(在587~609)・・・東突厥の可汗(カガン→ハーン=君主 )
煬帝が東突厥の啓民可汗を訪れた際、即位後、
一度も朝貢していない高句麗の使者が東突厥にいた事です。
これって、明らかに高句麗は隋を無視していたのです。
(北)京杭(州)大運河開通の翌年、
611年2月煬帝は「江都」の楊子津を臨んだ釣台へ上がり
百僚らと大宴会を催し、「江都」より「龍舟」にて運河を北上、
「通済渠(黄河~淮水)」を経て、「涿郡(北京)」に入ったのです。
この涿郡で「高句麗討伐」の命を発し、兵・兵糧・武具等を調達。翌、
612年春正月、100万を超す(1,133,800)兵を高句麗へ向けて進軍。
高句麗将軍の巧みで狡猾な戦術により大敗を来たし撤退。
(宇文述〈隋〉V.S. 乙支文徳〈高句麗〉)
613年春正月、再び兵を徴発、高句麗へ侵攻するも
「楊玄感反於黎陽(6月)」(隋将軍、楊玄感が「黎陽」にて反乱)
*黎陽(レイヨウ)・・・現在の河南省鶴壁市
楊玄感(?~613)が煬帝に叛旗を翻し挙兵、隋軍は退却する羽目に。
614年2月、煬帝は百僚を集め高句麗討伐について尋ねるも
百僚達の皆さんはだんまりで埒あかず。再々度、兵を徴集。
3月「涿郡(北京)」に向かうも、途中逃亡兵少なからず。
4月煬帝は「北平(現在の河北省保定市)」に至る。
7月煬帝は「懐遠鎮(場所不明)」に着く。
一方、海から遼東半島に上陸した隋将軍「来護児(?~618)」が
「卑奢城(現在の遼寧省鞍山市海城市)」
(海城市〈県〉は「張作霖〈1875~1928〉の生地」)
で高句麗軍を撃破、高句麗首都、平壤へ向け、兵を赴かせます。
この状況に高句麗王、「高元」は恐れおののき、
「遼東城(現在の遼寧省遼陽市)」へ降伏を伝える使者を送った。
その際、遣使は隋亡命者「斛斯政(?~614)」を伴った。
(「楊玄感」と「斛斯政」は仲好しさん同士。
楊玄感反乱後、斛斯政は煬帝の追求を逃れる為、高句麗に亡命)
この報告を受けた煬帝は大悦び。「来護児」に召還命令を。 続く。
