« 厩戸大王と裴世清 相見える 828 | トップページ | 隋楊堅 九品官人法廃止 科挙へ 830 »

2022年10月22日 (土)

遣倭使 日本書紀と隋書の違い 829

「於是設宴享以遣清 復令使者隨清来貢方物 此後遂絶」
この文章が「隋書倭国伝」の最後になります。
裴世清の帰国要請に倭国厩戸大王は「宴」を催し、応じた。
裴世清帰国の際、倭国は使者を随伴させた。
使者にはお土産を持たせ、隋朝へ献上。
この後、倭国とのお付き合いは絶えてしまっと。
「隋書 煬帝上」に
「大業六年(610年)正月己丑 倭国遣使貢方物」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三 煬帝上 6行~)
と記述されていますので裴世清・倭国使者は倭国を609年に離れ、
遣隋使らは610年春正月、隋朝謁見儀礼に参列した事になります。
これ年以後、倭国からの遣隋使は途絶えた事に。
遣隋使派遣廃止は隋の「仏教治国策」を裴世清の伝授を聞き及び、
厩戸大王は会得し、もう十分と思われたのかしら
607年妹子等と隋に渡り、608年に帰倭しなかった「沙門(僧侶)」は
この年610年に小野妹子等と帰国できたのかしら
いらぬ心配だとよろしいのでしょうが・・・・・。
ところで、この「隋書」の時系列と「日本書紀」に記載された時系列は
異なっているのです。

「十六年(608年)夏四月 小野臣妹子至自大唐 中略
 九月辛末朔乙亥(9/05) 饗客等於難波大郡
 辛巳(9/11) 唐客裴世清罷帰 則復以小野妹子臣為大使
 吉士雄成為小使 (鞍作)福利為逸事 副于唐客而遺之 中略
 (609年)秋九月 小野臣妹子等至自大唐 唯通事福利不来 中略
 廿二年(614年)夏五月五日 薬猟也
 六月丁卯朔己卯(6/13) 遣犬上君御田鍬 矢田部造 於大唐 中略
 廿三年(615年)秋九月犬上君御田鍬 矢田部造至自大唐」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P14 2行~)

日本書紀では
608年4月小野妹子帰倭、同年9月裴世清帰国(妹子再度隋使で同行)
609年9月小野妹子ら帰倭
614年6月犬上君御田鍬ら遣隋使として渡航
615年9月犬上君御田鍬ら帰倭
隋書倭国伝は
608年小野妹子ら帰国、遣倭使裴世清ら来倭
609年遣倭使裴世清ら帰隋(妹子再度隋使として同行)
610年正月小野妹子ら隋朝謁見儀礼に参列

遣倭使裴世清らの倭での滞在期間が違い過ぎる事。
日本書紀では614年遣隋使の記述有り、隋書倭国伝は記載無し。
基本的に日本書紀編纂者達は「隋書」に目を通していると思われます。
上記以外に日本書紀では600年倭の遣隋使朝見も没にしています。
何か「隠蔽しなくてはならない事情」があったのでしょう。
但し、遣隋使派遣の回数(3度)は一致しています。
「隠蔽事情」の探索は一先ず置いておきます。 続く。

Kiku5

|

« 厩戸大王と裴世清 相見える 828 | トップページ | 隋楊堅 九品官人法廃止 科挙へ 830 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 厩戸大王と裴世清 相見える 828 | トップページ | 隋楊堅 九品官人法廃止 科挙へ 830 »