隋楊堅 九品官人法廃止 科挙へ 830
後漢末、黄巾の乱(184年~)に始まる多元国家時代を経て
漸く、約400年後、北・南中国大陸を一元国家(589年)にした隋王朝。
(但し、280~304年の24年間、晋朝が中国を統一)
この混迷を極めた時期、
所謂「中国人」はより多元人種構成になります。
純粋な「漢人」「胡人」等と呼称される範疇は既に消滅しています。
隋は北朝出所ですので、一般的には「胡人系王朝」とされています。
この隋王朝が成し遂げた偉業は数々あれど画期的なことは
「九品(ホン〈呉音〉・ヒン〈漢音〉)官人法」を廃止し、
「科挙」を採用した事ではないでしょうか。
「九品官人法」は後漢最後の皇帝、献帝(181~234在189~220)より
帝位禅譲(実際は帝位簒奪)を受けた魏王朝、曹丕(父は曹操)から
陳羣(?~236)の建議により制度化した
「官吏(官僚・役人)登用制度」です。
「制九品官人之法 羣所建也」
(国立国会図書館 三国志魏書 巻二十二 桓二陳徐衞盧伝 7行)
この「品」は地位・身分を表現する等級で一品~九品あり、
その等級で自ずと「官職」が決められていました。
(この「品」が九品官人法廃止後、人・物の品格「上品・下品」用語に。)
但し、この制度は「豪族・権力保持者」子弟が優遇・有利なシステム。
魏晋に仕えた劉毅(216~285)は官吏にも関わらずこの制度を批判、
「上品無寒門 下品無勢族(上品に寒門なく、下品に勢族なし)」
*寒門・・・貧しい家柄 *勢族・・・有力豪族
と早々訴えています。
しかし、豪族・権力保持者にとっては素晴らしい楽ちん制度ですので
魏晋~六南朝時代(220〜589)に渡り、約370年も続く事に。
ところが、如何せん、
この制度では必ずしも「有能官吏」が登用される訳ではありません。
きっと以て、特に南朝は無能世襲人材で溢れかえっていたのでしょう。
久方ぶりに北・南中国大陸と一元統一した
日没処天子様(隋皇帝楊堅〈541~604在581~604〉)が有能・優秀な
人材を求め、旧制度を廃止、「試験」による官吏登用制度(=科挙)を
採用したのです。
そしてこの「科挙」はその後、
「モンゴル帝国の一部の元(1271~1368)」時代、一時途切れますが
なな何と、清王朝末期(1905年)、科挙制度廃止まで続いたのです。
続く。
