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2022年10月29日 (土)

隋楊堅 九品官人法廃止 科挙へ 830

後漢末、黄巾の乱(184年~)に始まる多元国家時代を経て
漸く、約400年後、北・南中国大陸を一元国家(589年)にした隋王朝。
(但し、280~304年の24年間、晋朝が中国を統一)
この混迷を極めた時期、
所謂「中国人」はより多元人種構成になります。
純粋な「漢人」「胡人」等と呼称される範疇は既に消滅しています。
隋は北朝出所ですので、一般的には「胡人系王朝」とされています。
この隋王朝が成し遂げた偉業は数々あれど画期的なことは
「九品(ホン〈呉音〉・ヒン〈漢音〉)官人法」を廃止し、
「科挙」を採用した事ではないでしょうか。
「九品官人法」は後漢最後の皇帝、献帝(181~234在189~220)より
帝位禅譲(実際は帝位簒奪)を受けた魏王朝、曹丕(父は曹操)から
陳羣(?~236)の建議により制度化した
「官吏(官僚・役人)登用制度」です。
「制九品官人之法 羣所建也」
国立国会図書館 三国志魏書 巻二十二 桓二陳徐衞盧伝 7行)
この「品」は地位・身分を表現する等級で一品~九品あり、
その等級で自ずと「官職」が決められていました。
(この「品」が九品官人法廃止後、人・物の品格「上品・下品」用語に。)
但し、この制度は「豪族・権力保持者」子弟が優遇・有利なシステム。
魏晋に仕えた劉毅(216~285)は官吏にも関わらずこの制度を批判、
「上品無寒門 下品無勢族(上品に寒門なく、下品に勢族なし)」
*寒門・・・貧しい家柄 *勢族・・・有力豪族
と早々訴えています。
しかし、豪族・権力保持者にとっては素晴らしい楽ちん制度ですので
魏晋~六南朝時代(220〜589)に渡り、約370年も続く事に。
ところが、如何せん、
この制度では必ずしも「有能官吏」が登用される訳ではありません。
きっと以て、特に南朝は無能世襲人材で溢れかえっていたのでしょう。
久方ぶりに北・南中国大陸と一元統一した
日没処天子様(隋皇帝楊堅〈541~604在581~604〉)が有能・優秀な
人材を求め、旧制度を廃止、「試験」による官吏登用制度(=科挙)を
採用したのです。
そしてこの「科挙」はその後、
「モンゴル帝国の一部の元(1271~1368)」時代、一時途切れますが
なな何と、清王朝末期(1905年)、科挙制度廃止まで続いたのです。
 続く。

Kiku5

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2022年10月22日 (土)

遣倭使 日本書紀と隋書の違い 829

「於是設宴享以遣清 復令使者隨清来貢方物 此後遂絶」
この文章が「隋書倭国伝」の最後になります。
裴世清の帰国要請に倭国厩戸大王は「宴」を催し、応じた。
裴世清帰国の際、倭国は使者を随伴させた。
使者にはお土産を持たせ、隋朝へ献上。
この後、倭国とのお付き合いは絶えてしまっと。
「隋書 煬帝上」に
「大業六年(610年)正月己丑 倭国遣使貢方物」
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三 煬帝上 6行~)
と記述されていますので裴世清・倭国使者は倭国を609年に離れ、
遣隋使らは610年春正月、隋朝謁見儀礼に参列した事になります。
これ年以後、倭国からの遣隋使は途絶えた事に。
遣隋使派遣廃止は隋の「仏教治国策」を裴世清の伝授を聞き及び、
厩戸大王は会得し、もう十分と思われたのかしら
607年妹子等と隋に渡り、608年に帰倭しなかった「沙門(僧侶)」は
この年610年に小野妹子等と帰国できたのかしら
いらぬ心配だとよろしいのでしょうが・・・・・。
ところで、この「隋書」の時系列と「日本書紀」に記載された時系列は
異なっているのです。

「十六年(608年)夏四月 小野臣妹子至自大唐 中略
 九月辛末朔乙亥(9/05) 饗客等於難波大郡
 辛巳(9/11) 唐客裴世清罷帰 則復以小野妹子臣為大使
 吉士雄成為小使 (鞍作)福利為逸事 副于唐客而遺之 中略
 (609年)秋九月 小野臣妹子等至自大唐 唯通事福利不来 中略
 廿二年(614年)夏五月五日 薬猟也
 六月丁卯朔己卯(6/13) 遣犬上君御田鍬 矢田部造 於大唐 中略
 廿三年(615年)秋九月犬上君御田鍬 矢田部造至自大唐」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P14 2行~)

日本書紀では
608年4月小野妹子帰倭、同年9月裴世清帰国(妹子再度隋使で同行)
609年9月小野妹子ら帰倭
614年6月犬上君御田鍬ら遣隋使として渡航
615年9月犬上君御田鍬ら帰倭
隋書倭国伝は
608年小野妹子ら帰国、遣倭使裴世清ら来倭
609年遣倭使裴世清ら帰隋(妹子再度隋使として同行)
610年正月小野妹子ら隋朝謁見儀礼に参列

遣倭使裴世清らの倭での滞在期間が違い過ぎる事。
日本書紀では614年遣隋使の記述有り、隋書倭国伝は記載無し。
基本的に日本書紀編纂者達は「隋書」に目を通していると思われます。
上記以外に日本書紀では600年倭の遣隋使朝見も没にしています。
何か「隠蔽しなくてはならない事情」があったのでしょう。
但し、遣隋使派遣の回数(3度)は一致しています。
「隠蔽事情」の探索は一先ず置いておきます。 続く。

Kiku5

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2022年10月15日 (土)

厩戸大王と裴世清 相見える 828

「倭王遣小徳德阿輩台 従数百人 設儀仗 鳴鼓角来迎
 後十日 又遣大礼礼哥多毗 従二百余騎郊労
 既至彼都 其王与清相見 大悦
 曰
 我聞海西有大隋礼義之国 故遣朝貢
 我夷人 僻在海隅 不聞礼義 是以稽留境内 不即相見
 今故清道飾館 以待大使 冀聞大国惟新之化
 清答曰
 皇帝徳並二儀 沢流四海 以王慕化 故遣行人来此宣諭
 既而引清就館
 其後清遣人謂其王曰
 朝命既達 請即戒塗」
*維新・・・これ新たなり(改革・改良)
*二儀・・・万物を創り出す「陰陽」の二気。天地。
*戒塗・・・旅の支度(したく) 旅仕度(たびじたく)

倭王(=厩戸大王)は「小徳の德阿輩台」を難波に派遣、
到着した裴世清一行らを鳴り物入りで出迎えます。
裴世清らは十日程かけて難波から斑鳩郊外に至った際、
又、倭王(=厩戸大王)は「大礼礼哥多毗」を遣わし
旅の疲れを労(ねぎら)い、やがて裴世清らは斑鳩宮に。
*斑鳩・・・現在の奈良県生駒郡斑鳩町(法隆寺がある処)
 (厩戸大王は605年以降、斑鳩宮がお住まいです)
倭王(=厩戸大王)は裴世清と相見(まみ)え、大悦(おおよろこ)び。
「我は海西に大隋という礼・義を重んじる国が在ると聞き及び
 使者を派遣、ご挨拶に伺った。
 我は大隋から東の遠い海の片隅に住まう東夷(あずまえびす)で
 礼・義を存じあげません。然るにすぐお会いせず、路を清め、
 館をデコレートしお持ちしておりました。お会いしたからには
 どうか、貴国の「維新」の方法をお聞かせ下さい。」と裴世清に。
裴世清は通事を通して聞き、答えます。
「隋皇帝の徳は天地に並び、沢は四海に流ています。(慣用句)
 この度、倭王が隋を慕う故、隋皇帝は私を遣わし今ここに」と。
対面式終了後、裴世清は倭王から離れ、部屋に戻った。
ある程度の期間を経た後、裴世清は
「『朝命(隋皇帝のご指示任務)』は悉く終わりました。
 而るに私達の帰国準備をお願いします。」と要請。
任務内容は未記述ですので不明ですが流れ上「礼・義」について
隋王朝解釈をご教授下さったと思われます。 続く。

Kiku5

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2022年10月 8日 (土)

徐福来倭?蓬莱山→浦嶋子伝説 827

会稽東冶県(現在の福建省福州市)の東の海に「夷洲島」、そこから
遙か絶遠に「亶洲(澶洲)島」があり、その島に「徐福(徐巿)」が上陸。
ここ迄が正史「史記→後漢書」によるストーリー展開。
その「後漢書」の約204年後、
今現在解き明かしている「隋書倭国伝」で倭国の所在地について
「古云去楽浪郡境及帯方郡並一万二千里 在会稽之東」と。
この叙述が通りなら倭国は会稽の東に在るのです。
福建省福州市の東の海には今とてもホットな「台湾」島が。
従って、華夷思想溢れる「夷洲島」は「台湾島」に・・・・・?
裴世清ら倭国派遣団員一行らが上陸した「秦王国」を
華夏人が住まう「夷洲島」と勘違い・いやそんな事は?の記述が
「又東至秦王国 其人同於華夏 以為夷洲 疑不能明」に。
その「夷洲島」から遠くに「亶洲(澶洲)島」があり「徐福(徐巿)」が。
どちら様かが無理矢理、「亶洲(澶洲)島」は倭国の何処かと脚色。
これがロマン溢れる?「徐福(徐巿)の来倭、蓬莱山伝説」の顛末。
とは云うものの、「隋書」から約84年後(「史記」からだと約811年後)
この「蓬莱山伝説」をどなたから伝え聞いた「日本書紀」編纂者は
雄略帝の巻に何とまあ挿入しているのです。
「(雄略)廿二年(478年)春正月己酉朔 以白髪皇子爲皇太子
 秋七月 丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子 乗舟而釣
 遂得大亀 便化爲女 於是浦嶋子感以爲婦 相逐入海
 到蓬莱山 歴覩仙衆 語在別巻」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 雄略帝 P29の13行目)
*白髪皇子・・・後の清寧帝
なな、何と「(浦島太郎に比定された)浦嶋子」が「大亀」の化身女性と
一緒になり、お二人で「蓬莱山」に至り、神仙境を散策したと。
そして、時は流れ、紆余曲折を経て、「日本書紀」から1191年後の
1911年(明治44年)、「尋常小学唱歌(第二学年用) 浦島太郎」

♫昔々、浦島は 助けた亀に連れられて、
龍宮城に来てみれば、絵にもかけない美しさ。

乙姫様のご馳走に、鯛や比目魚の舞い踊り
ただ珍しくおもしろく、月日のたつも夢の中。

遊びの飽きて気がついて、お暇乞(いとまご)いもそこそこに
帰る途中の楽しみは、土産に貰った玉手箱。

帰ってみれば、こは如何に、元居た家も村もなく、
路に行きあふ人々は、顔を知らない者ばかり。

心細さに蓋とれば、あけて悔しき玉手箱、
中からぱっと白煙(しろけむり)、たちまち太郎はお爺さん。

となり、今現在迄、続いているのです。
蓬莱・神仙・不老不死等々幻想はこれ位に致します。 続く。

Kiku5

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2022年10月 1日 (土)

徐福(徐巿)蓬莱山伝説 続編正史 826

徐福(徐巿)の蓬莱山伝説のファンタジー物語は
「史記」の約173年後、班固により記述された次の正史「(前)漢書」に
登場しています。

「秦始皇初并天下 甘心於神僊之道 遣徐福
 韓終之属多齎童男童女入海求神采薬 因逃不還 天下怨恨」
国立国会図書館 漢書 卷二十五下 郊祀志 P56 9行)
「又使徐福入海求仙薬 多齎珍宝 童男女三千人 五種百工而行
 徐福得平原大沢 止王不来」
国立国会図書館 漢書 卷四十五 蒯伍江息夫傳 P12 3行)
*郊祀・・・古代、中国で、天子が郊外で天地をまつる大礼
(日本国語大辞典 小学館)
ここでは「史記」のフォローのみで新情報はありません。

そしてお次は、
「漢書」の約198年後、陳寿により記述された次の正史「三国志」にも
記載されています。
「(230年)黄龍二年 略 遣将軍衛温 諸葛直 将甲士万人
 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中
 長老伝言
 秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海 求蓬莱神仙及仙薬
 止此洲不還 世相承有数万家 其上人民 時有至会稽貨布
 会稽東県人海行 亦有遭風流移至亶洲者 所在絶遠 卒不可得至
 但得夷洲数千人還」
(国立国会図書館 三国志 巻四十七 呉書二 呉主伝 8行)
ここから「夷洲・亶(タン)洲」は「浮海」から「島」となります。
又、「亶洲」について長老が伝え聞く処に依ると
徐福が「亶洲」島に上陸して帰ってこなかった事。
更に亶洲人は時折「会稽東県」に買物に来ていた事。
会稽東県人も流れ流れて「亶洲」島に至った方もいる事。
島探索の将軍らは遙か絶遠にある「亶洲」島を発見できなかった事。
以上が新展開脚色となり、
史記から約371年後、徐福が留まった所は「亶洲」島に
されてしまったのです。

その「三国志」の約152年後、何と范曄による次の正史「後漢書」でも
触れています。
それも何と「後漢書 東夷列伝 倭」の最終叙述に存在しているのです。
「会稽海外有東鳀人 又有夷洲及澶洲
 伝言
 秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海 求蓬莱神仙不得
 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 世世相承 有数万家 人民時至会稽市
 会稽東冶県人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絶遠 不可往来」
国立国会図書館 後漢書 巻八十五 東夷列伝 倭 1行)
(尚、時の流れは前漢⇒後漢⇒三国〈魏・蜀・呉〉ですが
 正史成立順は(前)漢書⇒三国志⇒後漢書になっています。)
こちらの記載内容は「史記」と「三国志」を踏襲しています。
異なる処は「亶洲」・「会稽東県」(三国志)が後漢書では
「澶洲」・「会稽東冶県」の二カ所です。 続く。

Kikyou

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