秦王国住人は徐福(徐巿)の末裔 824
先週紹介しました
「又東至秦王国 其人同於華夏 以為夷洲 疑不能明」の件。
裴世清ら倭国派遣団員一行らが上陸、言葉を交わした「秦王国」。
ここの記述は
「不老不死を願い徐福(=徐巿)を蓬莱山へ派遣した秦の始皇帝」
伝説を想定したと思われます。
*蓬莱
中国の神仙(神・仙人)思想で説かれる仙境の一つで、神仙説
方丈、瀛(エイ)州と共に三神山の一つ。
渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海中にあり、
不老不死の仙人が住むと伝えられるところ。蓬莱山。
*神仙思想=神仙説
中国で昔、神仙の存在を信じた民間思想
長生不死の仙郷への昇天を求め、神仙の山を想像する。
(日本国語大辞典 小学館)
こちらは昔々、「蓬莱山(理想郷)始皇帝・徐福」で触れていますので
ご確認下さい。
「秦王国」住人の話す言語イントネーションは「陜西方言系」。
「秦王国」の秦は中国を一途最初に統一した国、統合者は始皇帝。
始皇帝(B.C.258~B.C.210在B.C.221~B.C.210秦初代皇帝)は
今上映中「キングダム2」の嬴政(エイセイ)さん。
秦の都は「咸陽(現在の陝西省咸陽市 西安から北西5㎞程)」
この都はB.C.206年項羽軍により焼失してしまいます。
この前後の戦禍を避け、遙か東方へ逃げ延び、
山東半島蓬莱港からえんやこら海を渡り、
韓半島(馬韓 → 辰〈秦〉韓・弁辰) を経て
はるばる倭に来られた方々(華僑)の住まった処が「秦王国」?
現代なら「川口市一部地区」「横浜中華街」等々、
江戸時代なら長崎出島のお隣「唐人屋敷」感じ?
とは云うものの、
裴世清らはどのような抑揚・方言で話していたのでしょう?
倭国派遣団員一行らの中で「陜西方言系」を理解できる方がいらした?
この状況をなぜか一行は「徐福(徐巿)の蓬莱山伝説」とコラボ設定。
「陜西方言系」を話す「秦王国住人(華夏)」を
「徐福(=徐巿)らの末裔」としてしまう無理筋の発想に及ぶのです。
この物語は下記の「史記」からスタートします。
「(B.C.219年)斉人徐市等上書 言海中有三神山
名曰 蓬莱 方丈 瀛洲 僊人(仙人)居之 請得斎戒 与童男女求之
於是遣徐市発童男女数千人 入海求僊人」
(国立国会図書館 電子図書館蔵書 史記 巻六 秦始皇本紀 P21 7行)
*上書・・・意見を述べる為、主君・上官などに書状を奉ること。
「蓬莱 方丈 瀛洲 僊人 居之」の記述から上記の「日本国語大辞典」
は説明しています。
「斉」の国出身の「徐市」は始皇帝に上奏。
「遙か遠い海に神仙人が住まう三山が在ります。
どうか、帝には斎戒いただき、私に若き男女を与え、
彼ら・彼女らと共に三山を探し求めさせて下さい。」と。
始皇帝は(不老不死を願い求め)徐市の要求に応え、
神仙人探索を承諾、「童男女数千人」を与え、
遙か遠い海原へ旅立たせるのです。 続く。

| 固定リンク
コメント