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2022年9月10日 (土)

煬帝(日没処天子)は太っ腹!? 823

「明年(608年) 上(煬帝)遣文林郎裴清(裴世清)使於倭国
 度百済 行至竹島 南望耽羅国 経都斯麻国 迥在大海中
 又東至一支国 又至竹斯国 又東至秦王国 其人同於華夏
 以為夷洲 疑不能明也 又経十余国 達於海岸
 自竹斯国以東 皆付庸於倭」
*文林郎・・・官職名(「掌撰録文史 検討旧事」文史撰録・旧事検討係)
(隋書 巻二十八 志第二十三 百官下 秘書省)
*秦王国・・・不明
*華夏・・・中国人が自国の中国を誇っていう語
*夷洲・・・台湾とも?
煬帝は「太っ腹」!?
きっと以て、「日出処天子致書日没処天子」に一応憤慨したものの
「天下唯一の天子、隋皇帝」にとって
「蛮夷 倭国の大王」なんて取るに足らない小童(こわっぱ)然。
しかし、なぜか「小生意気さ」と「巧みな漢文」にいたく感動。
一体、倭国、及び、倭国大王は何奴(なにやつ)って思われ、
小野妹子ら帰国の際、文林郎 裴清(裴世清)を遣わせたのです。
所謂、裴世清は密偵・諜報部員で、現在の中国大使館情報員と同じ。

以下の情報は裴世清ら倭国派遣団員一行が見聞きしたもの。
「百済」に渡り
(現在の山東半島蓬莱港から渤海湾・黄海を航行し百済へ)
「竹島(=珍島)」を過ぎて行くと、南に「耽羅国(=済州島)」が見えた
「迥在大海中(大海原に在る)都斯麻国(=ツシマ対馬国)」を経て
東方面《正確には南東》の「至一支国(=イキ壱岐国)」に至り
「至竹斯国(=チクシ筑紫国」に至り
東方面《?》の「秦王国」に至る、そこの住人は「華夏」と同じで
「夷洲」と思われるが定かではない。
(住民と接点をもった事からココへ上陸・休憩・宿泊した事に。)
又、十余国を経て、「達於海岸(海岸〈=大阪湾沿岸難波〉に達する)」
筑紫国から以東はみな倭国に「付庸(=従属)」する。
対馬・壱岐国は倭に属してなかったと。
(因みに、「魏志倭人伝」の記述ははこちらでご確認下さい。)
 続く。

Kikyou

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