日没処天子様 お元気でした? 822
「隋書倭国伝」の倭による第二回遣隋使からの叙述になります。
「大業三年(607年) 其王多利思比孤遣使朝貢
使者曰
聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法
其国書曰
日出処天子致書日没処天子無恙 云云
帝覧之不悦
謂鴻臚卿曰
蛮夷書有無礼者 勿復以聞」
*沙門・・・僧侶 *朝拝・・・天子拝謁儀式
*鴻臚卿(コウロケイ)・・・外国使節接待係長官
*蛮夷・・・未文明の野蛮人
倭国伝では607年(大業三年)とありますが、
隋書 煬帝紀では608年(大業四年)3月に「倭 略 遣使貢方物」と。
(国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三 煬帝上 15行~)
これは倭国を607年7月(日本書紀)出発、
隋に608年3月以前到着、正式ご挨拶が608年3月にと云う事?
小野妹子が鞍作福利を通じて先方のお役人に
「西海の『菩薩天子』が仏法を興隆しておられるお聴きしましたので
(倭の大王)は私を『朝拝』に派遣し、
及び、倭の僧侶も仏法を学習する為参りました」と。
又、(倭の大王)が託した「国書」には
「日出る処(=東)の『天子』が日没する処(=西)の天子に
国書をお届け致します。お元気でいらっしゃいましたか?」
「無恙(《600年に失礼した後以降》つつがなきや)」から
隋皇帝楊堅(541~604在581~604)から煬帝(569~618在604~618)
になっていた情報を掴んでおらず楊堅宛て国書だったのです。
隋初代皇帝の楊堅は「儒教・道教・仏教」の内、「仏教」を特に重んじ
その教義で国を治め(仏教治国策)、
582年国寺として都の長安に「遵善寺→大興善寺」を建立、
601年6/13「隋国立舎利塔詔」を発布、各地の仏舎利を小分けした。
これらの事実は600年第一回遣隋使で情報取得、
舎利塔の件は倭在住渡来僧からの伝達があったのでしょう。
従って、小野妹子(通事 鞍作福利)らは隋皇帝を「菩薩天子」と
尊称したと思われます。
但し、遠い昔に紹介しました仏様のランキングで「菩薩」は二番目。
(脚光浴びた仏像群達をご確認下さい。)
トップは「如来」で仏を目指して修行を全て終了されたお方。
「菩薩」は仏を目指し修行中のお方。
「如来天子」としなかった事にちょっぴり「悪戯」を感じません?
ところで、この「厩戸大王の国書(日出処天子致書日没処天子)」
をご覧になった煬帝はとても気分を害され、鴻臚卿に
「蛮夷の書で無礼あるものは二度と聞かせるな」とおっしゃったとか。
続く。

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