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2022年9月24日 (土)

始皇帝の夢にも出る徐福(徐巿) 825

「史記」に「徐福(徐巿)の蓬莱山伝説」は更に叙述されています。

「又使徐福入海求神異物 還為偽辞曰
 『臣見海中大神
  言曰 汝西皇之使邪
  臣答曰 然
  汝何求
  曰 願請延年益寿薬
  神曰 汝秦王之礼薄 得観而不得取
  即従臣東南至蓬莱山 見芝成宮闕 有使者銅色而龍形 光上照天
  於是臣再拝問曰
  宜何資以献
  海神曰 以令名男子若振女与百工之事 即得之矣』
 秦皇帝大説 遣振男女三千人 資之五穀種種百工而行
 徐福得平原広沢 止王不来」
国立国会図書館 史記 淮南衡山列伝第五十八 P14 13行)
ここの部分は徐福の「偽辞曰(偽り文言)」で嘘八百の虚言。
先週、紹介した「秦始皇本紀」の内容が被っています。
「大神(=神仙人)」は「徐福」を「蓬莱山」に連れて行き、
「寿薬(=不老不死の仙薬)」が欲しければ
「令名男子若振女与百工之事(名高い若き男女と様々な道具)」を
献上すれば得られると述べたと徐福は始皇帝に偽証。
始皇帝は「寿薬欲しさ」に目が眩み、まんまと欺され、海原の出た
徐福は「平原広沢」を得てそこの「王」に止(とど)まったと。
この記述から先週紹介しました「秦始皇本紀」自体も絵空事に。

これだけではありません。「徐巿(徐福)」はまだ登場します。
「(B.C.212年)徐市等費以巨万計 終不得薬」
国立国会図書館 史記 巻六 秦始皇本紀 P30 16行)
徐市等 費(ついえ)巨万を以て計(かそ)う 終(つい)に薬を得ず。
ここは伝聞ですが
徐市に多額を費やしたが結局仙薬は得られなかったと。
「(B.C.210年)方士徐市等入海求神薬 数歳不得 費多 恐譴
  乃詐曰 蓬莱薬可得 然常為大鮫魚所苦 故不得至
  願請善射与俱 見則以連弩射之」
国立国会図書館 史記 巻六 秦始皇本紀 P34 5行)
ここは始皇帝の夢の中、徐市の仙薬を得られない理由として、
海原の行く手に「大鮫魚」がいて蓬莱山にたどり着けませんので
「連弩(連射弓)」の名手をお与え下さいと詐られる夢物語。
夢にも出現する「徐巿(徐福)」始皇帝の長寿願望がそれ程強かった。
始皇帝はこの年、願い叶わず50歳であの世に旅立たれています。
 続く。

Kikyou

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2022年9月17日 (土)

秦王国住人は徐福(徐巿)の末裔 824

先週紹介しました
「又東至秦王国 其人同於華夏 以為夷洲 疑不能明」の件。
裴世清ら倭国派遣団員一行らが上陸、言葉を交わした「秦王国」。
ここの記述は
「不老不死を願い徐福(=徐巿)を蓬莱山へ派遣した秦の始皇帝」
伝説を想定したと思われます。
*蓬莱
中国の神仙(神・仙人)思想で説かれる仙境の一つで、神仙説
方丈、瀛(エイ)州と共に三神山の一つ。
渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海中にあり、
不老不死の仙人が住むと伝えられるところ。蓬莱山。
*神仙思想=神仙説
中国で昔、神仙の存在を信じた民間思想
長生不死の仙郷への昇天を求め、神仙の山を想像する。
(日本国語大辞典 小学館)
こちらは昔々、「蓬莱山(理想郷)始皇帝・徐福」で触れていますので
ご確認下さい。
「秦王国」住人の話す言語イントネーションは「陜西方言系」。
「秦王国」の秦は中国を一途最初に統一した国、統合者は始皇帝。
始皇帝(B.C.258~B.C.210在B.C.221~B.C.210秦初代皇帝)は
今上映中「キングダム2」の嬴政(エイセイ)さん。
秦の都は「咸陽(現在の陝西省咸陽市 西安から北西5㎞程)」
この都はB.C.206年項羽軍により焼失してしまいます。
この前後の戦禍を避け、遙か東方へ逃げ延び、
山東半島蓬莱港からえんやこら海を渡り、
韓半島(馬韓 → 辰〈秦〉韓・弁辰) を経て
はるばる倭に来られた方々(華僑)の住まった処が「秦王国」?
現代なら「川口市一部地区」「横浜中華街」等々、
江戸時代なら長崎出島のお隣「唐人屋敷」感じ?
とは云うものの、
裴世清らはどのような抑揚・方言で話していたのでしょう?
倭国派遣団員一行らの中で「陜西方言系」を理解できる方がいらした?
この状況をなぜか一行は「徐福(徐巿)の蓬莱山伝説」とコラボ設定。
「陜西方言系」を話す「秦王国住人(華夏)」を
「徐福(=徐巿)らの末裔」としてしまう無理筋の発想に及ぶのです。
この物語は下記の「史記」からスタートします。

「(B.C.219年)斉人徐市等上書 言海中有三神山
 名曰 蓬莱 方丈 瀛洲 僊人(仙人)居之 請得斎戒 与童男女求之
 於是遣徐市発童男女数千人 入海求僊人」
国立国会図書館 電子図書館蔵書 史記 巻六 秦始皇本紀 P21 7行)
*上書・・・意見を述べる為、主君・上官などに書状を奉ること。
「蓬莱 方丈 瀛洲 僊人 居之」の記述から上記の「日本国語大辞典」
は説明しています。
「斉」の国出身の「徐市」は始皇帝に上奏。
「遙か遠い海に神仙人が住まう三山が在ります。
 どうか、帝には斎戒いただき、私に若き男女を与え、
 彼ら・彼女らと共に三山を探し求めさせて下さい。」と。
始皇帝は(不老不死を願い求め)徐市の要求に応え、
神仙人探索を承諾、「童男女数千人」を与え、
遙か遠い海原へ旅立たせるのです。 続く。

Kikyou

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2022年9月10日 (土)

煬帝(日没処天子)は太っ腹!? 823

「明年(608年) 上(煬帝)遣文林郎裴清(裴世清)使於倭国
 度百済 行至竹島 南望耽羅国 経都斯麻国 迥在大海中
 又東至一支国 又至竹斯国 又東至秦王国 其人同於華夏
 以為夷洲 疑不能明也 又経十余国 達於海岸
 自竹斯国以東 皆付庸於倭」
*文林郎・・・官職名(「掌撰録文史 検討旧事」文史撰録・旧事検討係)
(隋書 巻二十八 志第二十三 百官下 秘書省)
*秦王国・・・不明
*華夏・・・中国人が自国の中国を誇っていう語
*夷洲・・・台湾とも?
煬帝は「太っ腹」!?
きっと以て、「日出処天子致書日没処天子」に一応憤慨したものの
「天下唯一の天子、隋皇帝」にとって
「蛮夷 倭国の大王」なんて取るに足らない小童(こわっぱ)然。
しかし、なぜか「小生意気さ」と「巧みな漢文」にいたく感動。
一体、倭国、及び、倭国大王は何奴(なにやつ)って思われ、
小野妹子ら帰国の際、文林郎 裴清(裴世清)を遣わせたのです。
所謂、裴世清は密偵・諜報部員で、現在の中国大使館情報員と同じ。

以下の情報は裴世清ら倭国派遣団員一行が見聞きしたもの。
「百済」に渡り
(現在の山東半島蓬莱港から渤海湾・黄海を航行し百済へ)
「竹島(=珍島)」を過ぎて行くと、南に「耽羅国(=済州島)」が見えた
「迥在大海中(大海原に在る)都斯麻国(=ツシマ対馬国)」を経て
東方面《正確には南東》の「至一支国(=イキ壱岐国)」に至り
「至竹斯国(=チクシ筑紫国」に至り
東方面《?》の「秦王国」に至る、そこの住人は「華夏」と同じで
「夷洲」と思われるが定かではない。
(住民と接点をもった事からココへ上陸・休憩・宿泊した事に。)
又、十余国を経て、「達於海岸(海岸〈=大阪湾沿岸難波〉に達する)」
筑紫国から以東はみな倭国に「付庸(=従属)」する。
対馬・壱岐国は倭に属してなかったと。
(因みに、「魏志倭人伝」の記述ははこちらでご確認下さい。)
 続く。

Kikyou

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2022年9月 3日 (土)

日没処天子様 お元気でした? 822

「隋書倭国伝」の倭による第二回遣隋使からの叙述になります。

「大業三年(607年) 其王多利思比孤遣使朝貢
 使者曰
 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法
 其国書曰
 日出処天子致書日没処天子無恙 云云
 帝覧之不悦
 謂鴻臚卿曰
 蛮夷書有無礼者 勿復以聞」
*沙門・・・僧侶 *朝拝・・・天子拝謁儀式
*鴻臚卿(コウロケイ)・・・外国使節接待係長官
*蛮夷・・・未文明の野蛮人

倭国伝では607年(大業三年)とありますが、
隋書 煬帝紀では608年(大業四年)3月に「倭 略 遣使貢方物」と。
国立国会図書館 電子図書館 隋書 巻三 煬帝上 15行~)
これは倭国を607年7月(日本書紀)出発、
隋に608年3月以前到着、正式ご挨拶が608年3月にと云う事?
小野妹子が鞍作福利を通じて先方のお役人に
「西海の『菩薩天子』が仏法を興隆しておられるお聴きしましたので
 (倭の大王)は私を『朝拝』に派遣し、
 及び、倭の僧侶も仏法を学習する為参りました」と。
又、(倭の大王)が託した「国書」には
「日出る処(=東)の『天子』が日没する処(=西)の天子に
 国書をお届け致します。お元気でいらっしゃいましたか?」
「無恙(《600年に失礼した後以降》つつがなきや)」から
隋皇帝楊堅(541~604在581~604)から煬帝(569~618在604~618)
になっていた情報を掴んでおらず楊堅宛て国書だったのです。
隋初代皇帝の楊堅は「儒教・道教・仏教」の内、「仏教」を特に重んじ
その教義で国を治め(仏教治国策)、
582年国寺として都の長安に「遵善寺→大興善寺」を建立、
601年6/13「隋国立舎利塔詔」を発布、各地の仏舎利を小分けした。
これらの事実は600年第一回遣隋使で情報取得、
舎利塔の件は倭在住渡来僧からの伝達があったのでしょう。
従って、小野妹子(通事 鞍作福利)らは隋皇帝を「菩薩天子」と
尊称したと思われます。
但し、遠い昔に紹介しました仏様のランキングで「菩薩」は二番目。
脚光浴びた仏像群達をご確認下さい。)
トップは「如来」で仏を目指して修行を全て終了されたお方。
「菩薩」は仏を目指し修行中のお方。
「如来天子」としなかった事にちょっぴり「悪戯」を感じません?
ところで、この「厩戸大王の国書(日出処天子致書日没処天子)」
をご覧になった煬帝はとても気分を害され、鴻臚卿に
「蛮夷の書で無礼あるものは二度と聞かせるな」とおっしゃったとか。
 続く。

Kikyou

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