« 豊聡耳法大王は確固たる倭王 819 | トップページ

2022年8月 6日 (土)

593年4月弱冠二十歳 厩戸大王 820

額田部皇女→豊御食炊屋姫(554~628)を基準に日本書紀から
571年 敏達帝の奥様に(18歳)
585年08月 敏達帝崩御(32歳)
592年12月 群臣より三度のお願い有りにて豊浦宮で即位(39歳)
593年01月 仏舎利(百済からの贈与?)を法興寺刹柱礎に(40歳)
593年04月 政務全般を厩戸皇子(20歳)に委任(40歳)
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P3 6行)
594年02月 仏教興隆の詔(41歳)
595年05月 高麗僧 惠慈が帰化(41歳) この年百済僧 惠聡が来倭
596年11月 法興寺落成 惠慈と惠聡、共にこの寺に住む(43歳)
599年04月 地震発生 建造物倒壊(46歳)
600年02月 任那v.s.新羅の闘い この年小墾田に造営(47歳)
601年02月 斑鳩に造営(48歳)
602年10月 百済僧 観勒が来倭 暦本・天文地理書等頂く(49歳)
603年10月 小墾田宮へ(50歳)
603年12月 冠位十二階制定(50歳)
604年01月 冠位を諸臣へ 暦日採用(政事要略 巻廿五)(51歳)
604年04月 十七条憲法(道徳規範)制定(51歳)
604年09月 朝礼(儀礼制)の改正(51歳)
605年07月 諸王・臣に褶(ひらみ)着用の命(52歳)
607年02月 壬生部の設置(54歳)
607年07月 小野臣妹子・通訳鞍作福利らを大唐(おほもろこし)へ派遣

以上が隋書倭国伝 第二回(607年)遣隋使派遣までの叙述に。
593年4月以降の政務は委ねられた厩戸皇子のお仕事に。
又、ここの執筆者、山田史御方は「隋」を「大唐」と記述しています。
「開皇二十年(600年)第一回遣隋使派遣」叙述落とし同様、
「隋」と記載できないご事情があったのでは?
この倭国伝は636年に完成していますので
日本書紀編纂者達はきっと以て倭国伝に目を通していた筈では?
そこで、「厩戸大王」ですが
以前、「伊予国風土記(釈日本紀逸文)」で紹介しました。
596年「厩戸大王」は百済僧の恵総や葛城臣等を引き連れ、
「伊予温湯(=道後温泉)」へ訪れていました。
*恵総(捴)・・・588年来倭(日本書紀 崇峻帝)
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 崇峻帝 P25 14行)
この596年時点で「大王」と呼称されています。
従って、
593年4月「政務全般を厩戸皇子(20歳)に委任」された直前、
群臣等の推挙により「厩戸皇子」は「厩戸大王」になっていたのです。
然らば、
額田部皇女→豊御食炊屋姫のお役目は
当時、弱冠二十歳「厩戸大王」の後見・庇護をされていたのです。
何てったって彼女は
「蘇我系元大王の奥様」で「厩戸の叔母様」なのですもの。
彼女は「厩戸大王」の「心の拠り所存在」だったのです。 続く。

オミクロンBA.5が未だ蔓延中、わたくしどもは暫し夏休みを頂きます。
それでは又。

Asagao

|

« 豊聡耳法大王は確固たる倭王 819 | トップページ

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 豊聡耳法大王は確固たる倭王 819 | トップページ