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2022年8月27日 (土)

上宮・廐戸・豊聡耳・太子に 821

久方ぶりのお出かけ・お遊びで皆さんお疲れ気味ですか?
それでは、心機一転前回からの続きです。
「厩戸皇子→大王」は日本書紀・推古帝に於いて生い立ち・聡明・
名前の謂(いわ)れ等が叙述されています。

「橘豊日天皇(用明帝)第二子也 母皇后曰穴穗部間人皇女
 皇后懷姙開胎之日 巡行禁中 監察諸司 至于馬官 乃当廐戸
 而不労忽産之 生而能言 有聖智
 及壮 一聞十人訴 以勿失能弁 兼知未然
 且習内教於高麗僧惠慈 学外典於博士覚哿 兼悉達矣
 父天皇愛之令居宮南上殿 故称其名謂 上宮廐戸豊聡耳太子」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P3 8行)
*内教(ほとけののり)→ 仏法 外典(とつふみ)→儒教経典

厩戸皇子の母、穴穗部間人皇女さんは臨月を迎えるも
とてもお元気、なぜか「馬官(厩=馬管理小屋)」へお散歩途中、
うっかり馬小屋の戸に触れ、ぶつかった際、難なく皇子がお生まれに。
「生而能言(生まれながらに能く言〈ものい〉う)」は嘘で
「元気溌剌なオギャー」だったのでしょう。
「有聖智(あらゆるものに通じる優れた知恵有り)」は親馬鹿発想?
「壮(男盛り〈夢精後?〉)」に及び、一度に十人の云うことを聴き、
 誰一人誤認はなかったと。
「兼知未然(兼ねて未然〈=未来〉を予知できた)」とも。
基本的にどちらもあり得ませんが、
認識力・自然観察力に長けたお方だったのでは?
又、仏法は高麗僧 恵慈、儒教経典は百済の覚哿博士に教わり・学び
悉(ことごと)く「達(悟)〈さと〉」られたと。
*儒教経典
四書・・・大学・中庸・論語 孟子(朱熹〈1130~1200〉以降)
五経・・・易経・書経・詩経・礼記・春秋
これらの記述箇所が皇子を「聖人」扱いする由縁にされてます。
*聖人
知識や徳望がすぐれ、世の模範と仰がれるような人。
神のように万事に通暁している人。
特に儒教では古代の堯・舜・・禹・湯・文王・武王・周公・孔子
などをあげていう。ひじり。(日本国語大辞典 小学館)
皇子は父、用明大王にこよなく愛され、住まいは「宮南上殿」に。
そして、「上宮廐戸豊聡耳太子」は
「上宮(お住まい)・廐戸(誕生所)・
 豊聡耳(一聞十人訴 以勿失能弁)」の合成名を称されたとさ。

厩戸皇子は仏法・儒教経典を激しく勉学され20歳(593年)に
群臣等に額田部皇女を後見人とし、「大王」に推挙されたのです。
その後、渡来人等からのお隣中国情報から、
三国六朝・五胡十六国時代(220~581年)、
ほぼ360年に渡る分裂国家群を統一した「隋」に遣使を送る決断を。
これが、「厩戸大王」による「開皇二十年(600年)第一回遣隋使派遣」
事業になるのです。
この遣使で又聞きでない生情報を得た「大王」は体制を立て直し、
7年後(607年)、万難を排し第二回遣隋使を派遣するのです。
この件は日本書紀に記述されています。

「(推古帝15年=607年)秋七月戊申朔庚戌(7月3日)
 大礼小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P13 14行)
 続く。

Kikyou

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2022年8月 6日 (土)

593年4月弱冠二十歳 厩戸大王 820

額田部皇女→豊御食炊屋姫(554~628)を基準に日本書紀から
571年 敏達帝の奥様に(18歳)
585年08月 敏達帝崩御(32歳)
592年12月 群臣より三度のお願い有りにて豊浦宮で即位(39歳)
593年01月 仏舎利(百済からの贈与?)を法興寺刹柱礎に(40歳)
593年04月 政務全般を厩戸皇子(20歳)に委任(40歳)
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P3 6行)
594年02月 仏教興隆の詔(41歳)
595年05月 高麗僧 惠慈が帰化(42歳) この年百済僧 惠聡が来倭
596年11月 法興寺落成 惠慈と惠聡、共にこの寺に住む(43歳)
599年04月 地震発生 建造物倒壊(46歳)
600年02月 任那v.s.新羅の闘い この年小墾田に造営(47歳)
601年02月 斑鳩に造営(48歳)
602年10月 百済僧 観勒が来倭 暦本・天文地理書等頂く(49歳)
603年10月 小墾田宮へ(50歳)
603年12月 冠位十二階制定(50歳)
604年01月 冠位を諸臣へ 暦日採用(政事要略 巻廿五)(51歳)
604年04月 十七条憲法(道徳規範)制定(51歳)
604年09月 朝礼(儀礼制)の改正(51歳)
605年07月 諸王・臣に褶(ひらみ)着用の命(52歳)
607年02月 壬生部の設置(54歳)
607年07月 小野臣妹子・通訳鞍作福利らを大唐(おほもろこし)へ派遣

以上が隋書倭国伝 第二回(607年)遣隋使派遣までの叙述に。
593年4月以降の政務は委ねられた厩戸皇子のお仕事に。
又、ここの執筆者、山田史御方は「隋」を「大唐」と記述しています。
「開皇二十年(600年)第一回遣隋使派遣」叙述落とし同様、
「隋」と記載できないご事情があったのでは?
この倭国伝は636年に完成していますので
日本書紀編纂者達はきっと以て倭国伝に目を通していた筈では?
そこで、「厩戸大王」ですが
以前、「伊予国風土記(釈日本紀逸文)」で紹介しました。
596年「厩戸大王」は百済僧の恵総や葛城臣等を引き連れ、
「伊予温湯(=道後温泉)」へ訪れていました。
*恵総(捴)・・・588年来倭(日本書紀 崇峻帝)
国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 崇峻帝 P25 14行)
この596年時点で「大王」と呼称されています。
従って、
593年4月「政務全般を厩戸皇子(20歳)に委任」された直前、
群臣等の推挙により「厩戸皇子」は「厩戸大王」になっていたのです。
然らば、
額田部皇女→豊御食炊屋姫のお役目は
当時、弱冠二十歳「厩戸大王」の後見・庇護をされていたのです。
何てったって彼女は
「蘇我系元大王の奥様」で「厩戸の叔母様」なのですもの。
彼女は「厩戸大王」の「心の拠り所存在」だったのです。 続く。

オミクロンBA.5が未だ蔓延中、わたくしどもは暫し夏休みを頂きます。
それでは又。

Asagao

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