上宮・廐戸・豊聡耳・太子に 821
久方ぶりのお出かけ・お遊びで皆さんお疲れ気味ですか?
それでは、心機一転前回からの続きです。
「厩戸皇子→大王」は日本書紀・推古帝に於いて生い立ち・聡明・
名前の謂(いわ)れ等が叙述されています。
「橘豊日天皇(用明帝)第二子也 母皇后曰穴穗部間人皇女
皇后懷姙開胎之日 巡行禁中 監察諸司 至于馬官 乃当廐戸
而不労忽産之 生而能言 有聖智
及壮 一聞十人訴 以勿失能弁 兼知未然
且習内教於高麗僧惠慈 学外典於博士覚哿 兼悉達矣
父天皇愛之令居宮南上殿 故称其名謂 上宮廐戸豊聡耳太子」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P3 8行)
*内教(ほとけののり)→ 仏法 外典(とつふみ)→儒教経典
厩戸皇子の母、穴穗部間人皇女さんは臨月を迎えるも
とてもお元気、なぜか「馬官(厩=馬管理小屋)」へお散歩途中、
うっかり馬小屋の戸に触れ、ぶつかった際、難なく皇子がお生まれに。
「生而能言(生まれながらに能く言〈ものい〉う)」は嘘で
「元気溌剌なオギャー」だったのでしょう。
「有聖智(あらゆるものに通じる優れた知恵有り)」は親馬鹿発想?
「壮(男盛り〈夢精後?〉)」に及び、一度に十人の云うことを聴き、
誰一人誤認はなかったと。
「兼知未然(兼ねて未然〈=未来〉を予知できた)」とも。
基本的にどちらもあり得ませんが、
認識力・自然観察力に長けたお方だったのでは?
又、仏法は高麗僧 恵慈、儒教経典は百済の覚哿博士に教わり・学び
悉(ことごと)く「達(悟)〈さと〉」られたと。
*儒教経典
四書・・・大学・中庸・論語 孟子(朱熹〈1130~1200〉以降)
五経・・・易経・書経・詩経・礼記・春秋
これらの記述箇所が皇子を「聖人」扱いする由縁にされてます。
*聖人
知識や徳望がすぐれ、世の模範と仰がれるような人。
神のように万事に通暁している人。
特に儒教では古代の堯・舜・・禹・湯・文王・武王・周公・孔子
などをあげていう。ひじり。(日本国語大辞典 小学館)
皇子は父、用明大王にこよなく愛され、住まいは「宮南上殿」に。
そして、「上宮廐戸豊聡耳太子」は
「上宮(お住まい)・廐戸(誕生所)・
豊聡耳(一聞十人訴 以勿失能弁)」の合成名を称されたとさ。
厩戸皇子は仏法・儒教経典を激しく勉学され20歳(593年)に
群臣等に額田部皇女を後見人とし、「大王」に推挙されたのです。
その後、渡来人等からのお隣中国情報から、
三国六朝・五胡十六国時代(220~581年)、
ほぼ360年に渡る分裂国家群を統一した「隋」に遣使を送る決断を。
これが、「厩戸大王」による「開皇二十年(600年)第一回遣隋使派遣」
事業になるのです。
この遣使で又聞きでない生情報を得た「大王」は体制を立て直し、
7年後(607年)、万難を排し第二回遣隋使を派遣するのです。
この件は日本書紀に記述されています。
「(推古帝15年=607年)秋七月戊申朔庚戌(7月3日)
大礼小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 P13 14行)
続く。