厩戸皇子→豊聡耳法大王・法王大王 817
厩戸皇子の伊予(=道後)温泉にて。
こちらの情報は「伊予国風土記」に記載されていたのです。
但し、この風土記は現存しません。
しかし、「釈日本紀」に風土記の逸文があるのです。
「以上宮聖徳皇爲一度 中略
法興六年十月 歳在丙辰(596年) 我法王大王
與恵總法師及葛城臣 逍遥夷與村 正觀神井 歎世妙驗 欲叙意
聊作碑文一首」(總→総)
(国立国会図書館 電子図書館 釈日本紀 第廿三 幸于伊豫温湯宮)
「釈日本紀」には以前「一云に応神帝5世孫詳細」で
お世話になりました。
ここで厩戸皇子は「上宮聖徳皇」→「法王大王」と。
風土記は元明女帝の詔により各諸国が編纂、朝廷に提出した書物。
*風土記
古代官撰地方誌。和銅六年(713年)律令国家の命により各国の地
名整理・物産品目・土地の肥沃状態・地名の由来・旧聞伝承について
各国庁が報告した公文書(解〈げ〉)。漢文体・変体漢文体など国に
より文体は異なる。現存するのは完本である出雲国と、省略欠損
のある常陸・播磨・豊後・肥前国の五か国。逸文が「釈日本紀」「万
葉集註釈」などに三十数か国分収められている。各国の官命解釈
により内容記載に特色が出ている。和銅の正本は多く散失したら
しく、延長三年((九二五))再び太政官符によって再提出が命じら
れている。後世のものと区別して「古風土記」ともいう。古代の
地理・文化などが知られるとともに、「古事記」「日本書紀」に組
み込まれない地方独自の神話・伝説・歌謡などを知る上でも貴重。
(日本国語大辞典 小学館)
日本書紀(用明帝)で紹介しました厩戸皇子・(豊)耳聡聖徳・
豊聡耳法大王・法主王とも異なる表記になっています。
従って「大王」は
江田船・稲荷山出土鉄剣から「時の倭国リーダー」になり。
日本書紀(欽明・用明帝を除く)から前帝崩御後の次倭国リーダーに
なるのです。
そして、困ってしまうのですが、
日本書紀、用明帝の「大王」と伊予温泉の「大王」の扱い。
記述から豊聡耳法大王、及び法王大王は厩戸皇子になります。
今現在でも崇拝対象の厩戸皇子です。
でも、なぜか日本書紀(推古帝)に
薨去年は「廿九年春二月己丑朔癸巳(621年2/5)」とありますが
(国立国会図書館 電子図書館 日本書紀 推古帝 12行)
生誕年が記述されていないのです。
と云うことは
日本書紀編纂時代、厩戸皇子は今ほど評価されていなかった?
但し、何と、厩戸皇子の生誕年は「上宮聖徳法王帝説」に。
*上宮聖徳法王帝説
(「上宮聖徳法王」は聖徳太子の古い尊称。「帝説」は未詳。)
聖徳太子関係の伝記資料の集成。一巻。編者不明。
奈良初期に成った部分もあるというが、
現存本の形態は延喜一七~永承五年(917~1050)頃の成立とされる。
太子の系譜、事績その他の記録・文書を収め、記紀の所伝と異な
るものが含まれるなど、古代史の史料として貴重。法隆寺の薬師
仏および釈迦仏の銘文、天寿国繍帳の銘文なども引証される。
(日本国語大辞典 小学館) 続く。

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