獲加多支鹵大王→雄略帝 816
先週の日本書紀「大王(おほきみ)」から
「大王」表記の出現は仁徳帝が最初になります。
又、仁徳・允恭・雄略・顕宗・継体帝は
前帝崩御に伴い、後の帝即位への進言・要望・要請・懇願になります。
欽明帝のみ全て百済聖明王への返答になっています。
そして、
用明帝に出現する「(豊聡耳法)大王」は
「厩戸皇子」の別名として表記されています。
日本書紀の完成は720年です。
これ以前の時代に「大王」と刻印された鉄刀・剣が存在しています。
1江田船山古墳出土「治天下獲◯◯◯鹵大王」
2稲荷山古墳出土 「獲加多支鹵大王」
*江田船山古墳(熊本県玉名郡和光町)1873年発見
鉄刀(e国宝 江田船山古墳出土品)
*稲荷山古墳(埼玉県行田市)1968年発見
鉄剣(埼玉県立さきたま史跡の博物館)
稲荷山古墳鉄剣の最初の書き出しは「辛亥年七月中記」とあります。
辛亥年を当たってみると351・411・471・531・591年、
「獲加多支鹵大王」(→ワカタケルオホキミ)について
《大長谷》若建命(わかたけるのみこと)(古事記表記)
《大泊瀬》幼武天皇(わかたけるのすめらみこと)(日本書紀表記)
代 帝名 在位期間 在位年 崩御年 古事記崩御年
21 雄略帝 456年~479年 23年 479年 489年 己巳
(宮内庁 天皇系図 日本書紀)から
辛亥年→471年 「獲加多支鹵大王」→雄略帝とされています。
九州・北関東の首長らは
倭国のリーダーを「大王」と尊称していた事実が確認されます。
(只、剣に干支紀年法・漢字で刻印されたお方は一体どちら様?
かの時代倭国に暦年、及び、文字は無かった筈。
これらの知識をお持ちで来倭されてた方々に間違いは無い・・・・・。)
「(豊聡耳法)大王=厩戸皇子」だけでは心許ないのでもう一つ。
開皇二十年(600年)第一回遣隋使以前の596年に
厩戸皇子は道後温泉にお出かけになってます。(釈日本紀)
*道後温泉
愛媛県松山市にある温泉。泉質は単純泉
上代から伊予温湯、熟田津(にきたつ)石湯の名で知られている。
(日本国語大辞典 小学館) 続く。

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